2014年3月31日月曜日

心のどこかにある性悪説


一度くらいはどこかで耳にしたことがあるのではないかと思いますが、心理学者で経営学者のマクレガーによって提唱されたモチベーション理論で、「X理論・Y理論」というものがあります。

「人間は本来仕事をするのが嫌いであり、強制や命令がないと働かない」と捉えるのがX理論、「仕事をするのは人間の本性であり、自ら設定した目標に対しては、その報酬により積極的に働く」と捉えるY理論があり、一言で行ってしまうと「性悪説」のX理論「性善説」のY理論ということになります。

これをどう活用するかは、時と場合によっていろいろですが、意識的にY理論的な形を実践することが、組織運営では現実的な活用法だと言われています。私がお付き合いさせて頂く経営者や管理職の方々も、総論ではこの性善説のY理論的な考え方を中心に、組織作りを考えて行こうとすることが多いです。

ただ、部下との接し方や具体的な話になっていくほどに感じるのは、「それが良いとはわかっていても、なかなかそうばかりとはいかない」という実態です。

私がお付き合いさせて頂いている、いくつかの会社の管理職クラスの方々からも、ご自身の配下にいる部下たちを指して、「わかっているはずなのに、なんでやろうとしないのか・・・」「本人の意思任せではなかなか動かない」「結局、命令してやらせないとダメ」などというお話を聞きます。性善説ではうまくいかないという現実があるのは確かなのだと思います。

このように、「心のどこかに性悪説があるかもしれない」と感じる方々に共通しているのは、現場を良く見ていて、そこに近い立場である実務家の管理職が多いという点です。目先の業績もあげていかなければならないし、日常業務で起こる具体的な事象がいろいろ目に入り、きれいごとばかりではマネジメントしきれないということでしょう。
いろいろわかっているがゆえに、「どうしても黙って見ていられず、ついつい口を出してしまう」ということもあるようです。

やはり、目の前の結果を求めようとすると、どうしても性悪説的な対応が必要になり、その度合いが少なくなってくるほど、性善説に基づくマネジメントが可能になってくるということなのだろうと思います。結果が得られるまでの時間軸の捉え方が、短期で見ているのか、中長期で見ているのかという違いです。

これはあくまで私が見ている範囲においてですが、経営的に安定している、中長期のことも考えられる余裕があるような会社の方が性善説的な考え方が強く、業績が厳しい、常に短期業績重視の社風、経営者や管理職の気が短い、などといった会社の方が、性悪説的な施策が出てくることが多いと感じます。

私がお手伝いする人材育成や人のマネジメント、モチベーションに関わることにおいては、中長期的な視点で取り組んだ方が、効果を得るには結果的に早道ということがあります。どうしても性善説のY理論的な意識が強くなってしまいがちですが、現場を客観的に見ようとすればするほど、性悪説のX理論がダメで性善説のY理論が良いなどと、一概に言えるものではありません。

そういう意味では、「心のどこかに性悪説を持ちながらの性善説」というのが、実は絶妙に良いバランスなのかもしれないと思っています。


2014年3月28日金曜日

似ている気がする「働かないオジサン」と「ゆとり世代」への批判


「働かないオジサン」はなぜ働かなくなってしまったのか?というウェブ上の記事を目にしました。
どこの職場にもいる「働かないオジサン」ですが、「そのままでいると、定年後が寂しくなりますよ」というお話でした。

いろいろ考察がされていましたが、その中で一つ印象深かったのは、「会社組織で働く社員というのは、事業主のように直接社会とつながっている訳ではなく、会社を通して社会とつながっている間接的な関係である」ということでした。
「働かないオジサン」は、会社の仕事に対する意味を失っているので、社会と間接的にもつながっておらず、定年後に会社という居場所がなくなると、とたんに何もできなくなってしまうということでした。

あまり働かずとも、会社という枠組みの中にいれば、何とか安心感を得ることができるというようなニュアンスがあるのだと思います。現状を守っておきさえすればどうにかなるだろうという、無意識の感覚なのかもしれません。

私はサラリーマンではないので、自分の食いぶちは自分で稼がなければなりませんから、昔と今では感じ方がだいぶん違いますが、「会社を通じた間接的な社会とのつながり」というのは、元サラリーマンだからこそ、よけいに納得するところがあります。

私自身も若い頃は、あまり働かない中高年を見て、「高い給料もらってるくせに、なんで何もしないんだ!」などと思っていましたが、自分がそう言われる年代に差し掛かってくると、「働かないオジサン」の気持ちも何となくわかる気がし始めました。
 自分がかつてのサラリーマンのままだったら、もしかしたら「働かないオジサン」になってしまっていたかもしれないと思います。

なぜ働かないかと考えると、年齢とともに行動することが億劫になり、行動力が鈍っているということや、体力的な衰えという理由もあると思いますが、大きいのは、それまでの経験を通じて良くも悪くも先が読めるようになってきてしまったということではないかと思います。

「がむしゃらにやっても結果はそれほど変わらない」「今以上の出世は望めない」「どうせやっても無駄だ」・・・。そんな部分があるのでしょう。
結局、今は安全な場所にいるし、何となく先が見えているし、それほど頑張っても変わりはないから、定年までほどほどの力でやっておこうというような感じではないでしょうか。

ここから私が感じたのは、世間で「ゆとり世代」を批判するときの言葉に、ずいぶん似ている気がしたということです。
 「先を悟っていて行動しない」「すでに満足していて上昇志向がない」「言われないと動かない」など。あまり行動しない様子が指摘されますが、これはどちらにも同じように当てはまる気がします。

将来への希望が薄れてしまっていたり、現状でよいと満足してしまっていたりすると、実は世代にかかわらず、同じような行動になってしまうのかもしれないと思いました。

この解決策を考えると、やはり将来への希望を見出して、それを行動する活力に変えることしかないのだろうと思います。

世代間ギャップは対立的に面白おかしく語られがちですが、実は大した違いはないのかもしれません。


2014年3月26日水曜日

「○○満足」では動機づけにはつながらない


最近は「顧客満足(CS)」「従業員満足(ES)」など、“満足(Satisfaction)”と言う言葉がキーワードになることが増えました。満足感が伴わないと、その後の購買行動や業務へのやる気など、動機づけにつながらないということが一番の理由でしょう。

ただ、先日あるコンサルタントの方からうかがったお話で興味深かったのは、「満足感では動機づけにつながらない」というものでした。

今はほとんどの人たちが、生活レベルや経済力にかかわらず、「幸せか?」と聞かれれば「そうだ」と答えるように、多くの人がそれなりの満足感の中で生活していて、どうしても欲しいものがある訳でもなく、どうしても実現したい仕事上の何かがある訳でもないというようなことが多いのだそうです。

人間には、現状に満足していてもさらに上を目指そうとする「成長動機」があると言われていますが、この「成長動機」というのは、特に最近はそれほど強く存在しないのではないかと言われているのだそうです。

そうなると、すでに満足しているところにそれ以上満足を注入する余地は少ないですし、成長動機が少ないことと相まって、「ただ満足感を与えても、それが行動の動機づけにはつながりづらくなっている」ということでした。

このお話にはさらに続きがあって、こういう時代に人の行動を動機づけするためには、“満足”のさらに先の“幸福(Happiness)”を提供していかなければならないということでした。「顧客幸福(CH)」「従業員幸福(EH)」なのだそうです。

「満足感」というのは、与えられた物に対する感情なので、必ずしも成果と相関しないのに対して、「幸福感」は自分で創り上げた物に対する感情なので、成果と相関しやすい傾向があるということでした。

こんなお話に、私自身はなるほどと思って共感した訳で、 “満足”“幸福”の違いがそこまでわかっている訳ではありませんが、自分のイメージとしては、「満足感」にはどこかにゴールがあるが、「幸福感」にはそれがないという感覚でとらえています。際限がなければ、その分動機づけにはつながりやすいような気がします。

また、自分で創り上げた物に対する感情が「幸福感」であるならば、行き過ぎた指示命令、強制、アメとムチの外的報酬ではなく、自律的な判断、組織への帰属や貢献、それに伴う内的な報酬が大事ということになります。まさに私自身の取り組みテーマになっている部分です。

 企業人事という世界でいえば、さらに社員個々人の内面に目を向けていかなければならない時代なんだと感じています。


2014年3月24日月曜日

企業規模の違いによる経営者の「採用」への興味


ときどき経営者の交流会などに参加させて頂きますが、私がいろいろな会社でかかわってきたこともあって、人の採用の話になる時があります。

会社のコアメンバーをどうやって採用していくか、経営者の立場で採用に対してどのように関わっていくべきかなど、実際に直面している真剣なお話ばかりです。こういう話題になるのは中小企業の経営者の方々が多いですが、皆さんに共通しているのは、「自分が決断して雇う」「自分が責任を持たなければならない」という感覚です。

この感覚であれば、当然といえば当然ですが、組織体制や配置、人員計画といった会社の全体的なことだけでなく、社員個々の性格や特性といった細かな部分まで注目し、それなりに把握もしています。
もちろん目が届く程度の人数だからということもあるでしょうが、社員一人一人に対して、やはり「自社の社員」という思い入れがあるのだと思います。どんな人を採るか、どんな活動をするかという「採用」への興味は非常に高いです。

このあたりの意識というのは、企業規模が大きくなるとともに、徐々に変わってきます。具体的にいえば、社員個人にはあまり注目しなくなっていくということです。

以前お会いした1000人超規模のある会社の取締役は、社員の個別事情にはまったく興味がないという様子の方でした。社員一人一人と面識がないのはわかるとして、人の採用に関する話は人数や人員構成の話ばかりで、どんな人材をどのくらい採るというような話と合わせて、降格や辞めさせるといった雇用調整のような話も軽い調子で出てきます。

「採用」への興味はマクロ的なもので、活動そのものについてはあまり気にしていません。社員個人の捉え方は、将棋やチェス、ゲームのキャラクターのように、あくまで駒としてドライに割り切ってしまっているように見えました。厳しい経営を考える中では正論なのでしょうが、私はあまり共感できませんでした。

共感できなかった理由を考えると、やはり「経営者が持つべき社員への責任」があまり感じられなかったからです。また、ご自身がすぐに切り捨てられることがない取締役の立場ですから、自分の身は安全な場所に置いての発言と感じてしまったこともあります。

経営者の「採用」への興味は、企業規模が大きくなるにつれてマクロ的にとらえる人の比率が増えてくると思いますが、裏を返せば、これは社員一人一人のことは関知しない人が増えてくるということでもあります。一方で、相当な大企業の経営者でも、「採用」の細かい部分にも興味を持ち、社員への責任を強く意識されている方が大勢いらっしゃいます。

私が拝見している中では、業績が良い企業ほど、経営者が「採用」への興味を強く持っていることが多いように感じます。細かく口出しするということではなく、社員一人一人のことにも注目し、意識をしているということです。

やはり、社員一人一人の顔に思いをはせることは、バランスとして一定部分が必要だと思います。企業規模を問わず、「採用」は経営者の責任が大きいことには変わりがないと思います。


2014年3月21日金曜日

粗探ししてしまうのは人間の本能という話


ある方からうかがったお話が、ちょっと面白かったのでご紹介します。

例えば、雲一つない「青空」の中に、「小さな黒い何か」が浮かんでいたとしたら、たぶんほとんどの人は、それがいったい何かと目を凝らし、確かめようとするのではないかと思います。
鳥?、飛行機? 気球?、それともUFO?・・・。いずれにしても、気になって仕方がないはずです。

でも、その時に見えている視界の99.99%以上の大半の部分は「青空」のはずです。その中のごく一部でしかない「小さな黒い何か」という違和感に注目してしまうのは、実はそれが人間の本能なんだというお話です。

ごく小さなものであっても、いつもとは違う光景や違和感に対して、人間はもしかしたらそれが自分に危害を加えるかもしれない存在であると本能的に認識し、危険回避のためにそれに注目してしまうのだそうです。草原の中の猛獣のような、自分に危険な存在をできるだけ早く察知しようというようなことです。
要は、「人間は無意識のうちに粗探し、欠点探しをしてしまうもの」ということなのだそうです。

ということは、他人の欠点を見つけたり、それが目についたり、粗探しをしてしまったりというのは、特に意識しなくても本能的にできることであり、反対に他人の長所を見つけること、良い部分に注目することは、本能に反して意識的にやろうとしなければできないということになります。
褒めること、良いところを見つけることの難しさが言われるゆえんは、こんなところにもあるのだそうです。

この理屈が本当に合っているのかどうかはわかりませんが、無意識のうちに欠点に目が行ってしまうというのは理解できる気がします。
ただ、いくら本能だから仕方がないとはいえ、「小さな黒い何か」という欠点の周りには、その何十倍何百倍という大きさの「青空」という長所があるはずなのに、その長所には目が行かず、欠点ばかりに注目してしまうというのは、やはり不自然だしもったいないことだと感じます。

会社や学校や家庭など、猛獣に襲われる心配がなく危険回避が不要な場所では、意識的に「青空」という長所の方に注目してみると良いのではないかと思います。(家には猛獣のような嫁がいるなんて言う人、いないですよね?)


2014年3月19日水曜日

「強引な営業」に効果はあるのか


私が企業人事の頃の、その中でもずいぶん前の話になりますが、人事はだいたい管理部門に属しているので、近くに受付や来客応対を担当する部署があって、そこには飛び込みも含めていろんな営業の方がいらっしゃいます。

会社規模がそれほど大きくなかった頃は、まだきちんとしたセキュリティができておらず、社員が作業しているすぐ横に受付カウンターがあったので、来訪者がいきなりそこに訪ねてきます。

そんな中には結構強引な営業をする人もいて、お断りしているにもかかわらず、勝手に中までどんどん入ってきて、奥の方にいる管理者に無理やりコンタクトしようとするような人にもときどき遭遇することがありました。
管理部門というのは、女性やベテラン社員が多いので、こういう方にお引き取りいただく役割は、だいたい私などがやることになります。

そんなある時、新人クラス?に見える若手の営業マンがやってきて、社員を押しのけて中に入ってくるほど強引だったので、本気でつまみ出してやろうと思って近づくと、その表情はおびえて涙目になっています。
その時は普通に諭してお引き取りいただきましたが、行動と表情のギャップがあまりに大きかったので、何か気になっていました。

その後しばらく時間が経ったある日、営業マン教育のコンサルタントという方にお話をうかがう機会がありました。ベテランで経験豊富な方でしたが、その方が自分の武勇伝のように、「受付で止められても、強引にでも責任者の名刺をもらうぐらいでないと、営業目標は達成できない」などとおっしゃいます。
あまり賛同はできないものの、さらにもう少しうかがってみると、やっぱり最後は「気合と根性で説き伏せるのが大事」というようなお話でした。

もしも経験が少ない営業職が、こういう上司に指導を受けたとしたら、「強引にでもキーマンとコンタクトしろ」「最後は気合いで行かないと契約は取れないぞ」などと言われ、行動の選択肢がそれしかない状態で営業活動に望むことになるわけです。
前述のおびえた涙目の若手営業マンも、もしかしたらそんな営業ノウハウしか教えられず、他の引き出しを持たないままで、本人の気持ちや意思に反して強引な行動を取っていたのかもしれないと思いました。

私は営業の専門家ではないので、こういう手法に効果があるのかどうかはわかりませんが、少なくとも自分が顧客の立場であれば、礼を失したやり方をする営業は絶対にNGです。どんなに良い物であっても、その人からは絶対に買いません。

本来ならば、相手に合わせたいろいろな営業スタイルが必要で、経験者がそれを教えていかなければならないのだと思いますが、指導する側の価値観によってはこんな強引な手法が社内の主流となってしまい、結果的に多くの可能性の芽を摘んでいるように思います。営業成約の可能性と人の成長の可能性の両方です。

理屈だけではない、度胸をつけるような経験が必要なことはわかります。でもそんな強引な営業方法に本当に効果があるのか、それを教えることが人材育成につながるのかと考えると、少なくとも私はあまり賛成できません。


2014年3月17日月曜日

良いことばかりではない「人前で褒めること」


最近は「褒めて育てる」ということがよく言われるので、それが苦手ではあってもできるだけ褒めることを心掛けている人が増えてきたように思います。

褒め方というのはなかなか難しいもので、それに関する書籍や「良い褒め方」のような情報がたくさん出ていますが、そんな中の一つに、「褒めるときはできるだけ人前で」というものがありました。

人間が持つ「承認欲求」を満たす事ができて動機づけにつながりやすく、それと同時に上司としての褒める基準や価値観を、部下に伝えることができるからだそうです。褒められなかった人の対抗心を刺激するということもあるのでしょう。

ただ、私が現場でいろいろな人たちに接している中での実感として、人前で褒めることには、少々気遣いが必要な場面が増えていると感じています。どちらかといえば、人前で褒めない方が良い比率が多くなっているように思います。

どういうことかというと、一人を呼んで褒めていれば、その人が上げた成果や行動を、“絶対評価”で認めていることになりますが、これを人前で行ったときには、その場にいる他の人との“相対評価”に変わってしまうということです。褒められた人の行為そのものを褒めているというより、他人との比較による差、優劣を基に褒めていることになってしまいます。

誰かを人前で褒めれば、褒められたその人を見ている周りの人が存在する訳ですが、人間というのは、そもそもが他人との差に敏感な生き物です。

他人と比較され、相手が持ち上げられることで起こる感情というのは、私が思いつくだけでも「羨望」「対抗心」「劣等感」「ねたみ」「不公平感(ひいき)」「あきらめ」など、必ずしも前向きなものばかりではありません。いや、どちらかと言えば、「対抗心」以外は、前向きに何か行動しようという感情ではありません。

そうなると、人前で褒めることが効果的な事柄というのは、ある条件に限られてくると思います。その条件は、“誰でも褒められる可能性”があって、“その基準が公平である”ということになるでしょう。

こう考えると、褒めるときにはその対象者を個別に呼んで褒めた方が良いということが、圧倒的に多いのではないかと思います。

褒める大事さばかりが強調されるあまり、褒めることで天狗になったり調子に乗っているように見えてしまう場合もありますから、「本当に褒めることで成長するのか」と疑問を持っている人もいると思います。ただ、その原因の中には、「褒め方」に関する問題も潜んでいるのではないかと思います。

褒められる人がいる反対側で、プレッシャーを感じたり、傷ついたり、マイナス思考に陥ったりという人もいます。

他人と比較されることやライバル関係をエネルギーにして出世したような人ほど、他人との比較を公にしたがる傾向があります。でもこれは、必ずしも万人のモチベーションにはつながらないということは、十分に意識をしておく必要があると思います。


2014年3月14日金曜日

主語がない話の聞きづらさ


先日、ある方の講演を聴いている中で思ったことです。

それほど難しい話をしている訳ではないのですが、話の内容が、なぜかものすごく理解しづらく感じたのです。その理由としてわかったのは、話の中で主語の省略がものすごく多いのです。

お年寄りの会話などではありがちかもしれませんし、自分の母親などはまさに主語がないままであちこちに話が飛ぶような会話の連発なのですが、、さすがに講演のような、多くの人たちが話を聞いている場面であると、さすがにもうちょっと意識してほしいという気持ちになります。

主語というのは、話している中でついつい省略されやすいという所があるように思います。それがなぜなのかを考えると、要は相手の理解の程度に思いが及ばず、自己中心的に話をしているということなのだと思います。早く結論が話したい、相手も理解しているという思い込み、以心伝心で伝わっているつもりなど、話し手の意識としてはいろいろあるのでしょう。

また、外国の方々が日本人同士の会話を見ると、「あれ」とか「それ」とか、はっきりした主語がないのになぜか通じているという指摘を聞いたこともあります。あうんの呼吸があるのだと思いますが、どんな相手に対しても、自分の意図をきちんと理解してもらおうと考えると、やはりそれではマズイと思います。

自分が話すことばかりに意識が先行してしまうと、一番最初に省略してしまうのが主語なのではないかと思います。このように、ついつい省略しがちな主語ですが、話の理解度を左右する上では大事な部分です。

しっかりしたコミュニケーションの前提として、「主語からしっかり話すこと」を意識することが大事ではないかと思います。


2014年3月12日水曜日

「仕方がない」を前向きに変えるひと工夫


これはあるラーメン店で、最近出会ったことです。
そのお店は、カウンターが10席ほど、4人掛けのテーブルが4つほどの広さで、それなりに人気もあってときどき表に何人かの行列ができているようなお店です。

行ったのはお昼どきだったので、お店は当然混んでいてほぼ満席です、テーブル席の方も、常にいろんなグループのお客さんたちが相席しています。

そこで聞いていてちょっと感心したのが、「相席にご協力頂いているので、トッピングを一品サービスします」と言って、テーブル席のお客さんたちに注文を聞いていたことです。

昼食時の相席なんて、だいたいどこでもあるもので、イヤとかダメとか断っている人を見たことはありませんが、では相席がうれしいかと言われれば、それは違うと思います。「自分は別に気にならない」という程度がせいぜいでしょう。
みんな本音を言えば、あまりうれしくはないけど、混む時間帯だし、お互い協力した方が良いだろうということで、「仕方がない」と思っているのだと思います。

ただ、このお店のように、ちょっとサービスするように工夫しただけで、感じ方はずいぶん変わってきます。このサービスがあることで、場合によっては「ぜひ相席したい」なんて言う人が出てくるかもしれません。

これは少し違う例ですが、みんなが静かに勉強でもしているような中で、急に大きな音を立てられたら、ほぼ全員が「ああ、うるさい!」と不快な気分になるでしょうが、例えばこれが「大きな音を立てる人がいたら、その場の全員が500円もらえる」という前提があったとしたらどうでしょうか。こうなると、大きな音を立てる人が出てくるのを、意外に楽しみに待ったりするようになります。

このように、人は自分の周りで起こった事象について、初めに必ず、「それが自分にとって快か不快か」という感情での受けとめをします。そしてその受けとめはあくまで感情なので、ちょっと異なる前提が加わると正反対に変わることがあります。

会社の中でも「イヤだけど仕方がない」「良くないけど仕方がない」と無理やり納得しようとしているようなことがたくさんあると思います。行事の参加が少ない、会議の集まりが悪い、会話が少ない、雰囲気が重苦しい、・・・。

でも、この「仕方がない」という感情を、ちょっとのひと工夫で前向きに変えられることがあるというのが、今回たまたま目にしたことを通して思ったことです。
「仕方がない」で思考停止に陥らず、自分たちでもちょっとひと工夫を試してみてはいかがでしょうか。


2014年3月10日月曜日

動機づけにつながりづらくなっている「お金」という要素


多くの企業で、今はちょうど給与改定の季節です。私もそれに向けて、いくつかの企業支援をさせて頂いています。今年は政治からの賃上げ要請もあり、かなり久しぶりにベースアップが実現しそうな企業がいくつもありそうです。

経営者の立場からすれば、経費をいかに有効活用するかは至上命題で、賃上げをするからには、それが生産性アップや業績アップにつながることを望むのは当然です。
成果に見合った報酬を具体化した一例が成果主義であった訳ですが、最近の傾向として、成果と報酬をリンクさせることが、必ずしもその人の動機づけ、モチベーションにはつながりづらくなってきています。「お金がすべてではない」という話です。

私が接する経営者の方々だけでなく、多くの経営者は、成果を上げた人の給与がアップすることで、その人が「よし!さらに給与が上がるようにこれからも頑張ろう!」と思うことを期待するようですが、最近の思考は必ずしもそうではないことが多いように感じます。
もちろん給与アップは肯定的にとらえますが、そこから先のことは、どちらかといえば別問題です。

心理学の一説で、人間の欲求は不足しているものを補いたいと思う「欠乏動機」と、さらに自己実現を目指したいという「成長動機」の大きく二つに分類されていますが、給与というのは、この「成長動機」にはつながりづらいと言われています。金銭的な報酬には、もともとそういう傾向があると言われているものの、最近はその傾向が強まっていて、どちらかと言えば「欠乏動機」になってきていると言われます。

どういうことかというと、給与アップによって増すやる気というのは、あったとしてもごく短期間の一時的なものであり、あまり継続するものではありません。すぐに現状に慣れてしまい、それが既得権の当たり前のことになってしまいます。
一方で、給与ダウンや現状維持により、やる気を無くしてしまうということは往々にしてあります。その恨みは意外にしぶとく、人の心理の中にいつまでも残ります。

給与が上がったからと言って、それが確実にやる気につながるとはいえず、一方で給与が下がったりしようものなら、それは確実にやる気の低下につながります。
これは給与という「お金」の要素が、限りなく「欠乏動機」と化しているということです。

実は経営者の場合は、金銭的な上昇志向を持っていることが多いので、ご自身の経験と照らしたときにこういう心情をあまり理解できず、また昨今の会社の制度も、こういう前提では考えられていないことがほとんどです。

「せっかく給与を上げてやったのに社員から不満を言われた」という愚痴をお聞きすることもよくありますが、「お金」という要素が、必ずしも動機づけにつながりづらくなっているということは頭においておく必要があると思います。

最近のモチベーションの源泉は、個人の主観による部分が多くなってきています。この良し悪しは別にして、会社の仕組みとしてもマネジメントの手法としても、その対応は考えて行かなければならないだろうと思います。


2014年3月7日金曜日

組織改編のせいで行動を避ける社員たち


年度の切れ目は、企業では組織改編と人事異動の季節です。

なぜ組織改編や人事異動をするかと言えば、
・事業環境の変化に向けた対応
・昇格や昇進によるモチベーションアップの視点
・対象者にいろいろな経験を積ませる人材育成の視点。
・腐敗や癒着を防ぐ。
・マンネリを防ぐ。
その他いろいろな理由があります。

基本的には会社が事業を行っていく上でメリットになることですが、もちろん変えることによるデメリットもあります。
・仕事の引き継ぎに関するコスト
・慣れが失われることでの仕事の効率低下(一時的かもしれませんが)
などが大きなことでしょう。

ただ、ある会社で遭遇した組織改編によるデメリットが、予想を超えて極端だったために印象深く残っていることがあります。

それは組織改編や異動があるせいで、管理職を中心に「とにかく行動しない」「自分では決めない」「なるべく先延ばし」という人が圧倒的に多数だった会社です。

大きな組織変更や人事異動というのは、一般的には数年サイクルのローテーションなど、中期視点も持って行うことが多いと思いますが、この会社はとにかく組織改編と人事異動が頻繁でした。
管理職は毎年毎年肩書が変わり、部下も仕事内容も変わっていきます。頻繁な組織改変の理由をはっきりとは聞けませんでしたが、どうも会社の上層部の考え方として、誰がどんな専門性で何をやっているという人に関する視点よりも、まずは組織の形ありきで考える机上論が優先される傾向にあったためのようでした。

そこでどういうことが起こっていたかというと、数年先の話、中期的な話、年度またぎの話など、とにかく先の話、将来の話ができないのです。

私が関わるのは人事という世界なので、どちらかというと先のことを考えながら動かなければならない場面が多い訳ですが、そんな話題になると「この件に関しては進められるけど、その先は自分が担当するかわからないから保証はできない」「自分が判断できる範疇ではないから、その時になったらまた考えてほしい」などといわれます。

これが会社全体で、上司部下の関係、取引先との関係など、すべての場面ではびこっているのです。「先のことはわからないからできない」と言います。
社員にとっては自分のキャリアを見通せない不安があるでしょうし、どうせ責任を持ってくれない上司であれば、本音で付き合おうとはしないでしょう。
取引先や出入りの業者にとっても、先の見通しがつけにくい訳で、少々付き合いにくい会社であることは間違いありません。

これに対して会社の上層部は、こんな現場の事情をあまり理解していないのか、このような組織改編のやり方を「事業戦略に合わせた機動的な手法」と捉えているようです。

「機動的な組織改編」といえば聞こえは良いですが、このやり方では、ともすると「一貫性のない組織改編」となりかねません。これはあくまで極端な例かもしれませんが、変化や機動性を強調する半面で、一貫性と中長期の視点を欠いてしまっている気がしてなりません。

私がいつも思うことですが、変化に対応していくことが大前提としてある上で、守るべきものと変えなければならないものの両方が存在し、場面に応じて適切なバランスを考えて行くことが大切になります。
場面によって適切なバランスは変わるでしょうが、どちらか片方だけで良い場面というのは、ほとんどないはずです。
変化と一貫性のバランスが大事であることを、強く感じた一件でした。


2014年3月5日水曜日

立場の違い?男女の違い?それともコミュ力の違い?


最近は自分の気分転換も兼ねて、カフェを移動しながら仕事をすることが増えています。
そんなお店にいる機会が増えると、周りの人の会話が聞こうとしていなくても、その声がついつい耳に入ってきてしまうことがあります。(決して盗み聞きではなく、大きい声で話しているので聞こえてしまうのです・・・)

ある日のこと、まったく別グループの男性同士のペアと女性同士のペアが、どうも似たような関係性で同じようなテーマの話をしている場面に遭遇しました。同じようなことなのに、こんなに話し方が違うのかと思ったエピソードです。

まず女性同士のペアですが、たぶんエステサロンのオーナーらしき女性と、そこで働くことを考えている学生さんのようでした。
女性オーナーは、にこやかに相手の話を聞きながら、自分のお店の雰囲気の良さ、働きやすさを話していましたが、家庭を持ってからの仕事の話になった時に言っていたのが、「自分の専門とする仕事をしっかり身に付けて、日頃は男性に依存せず、いざとなった時に支えてあげられるようにすると良い」ということでした。男性同士の会話ではあまり感じられないような、たくましさを感じてしまいました。話を聞いていた学生さんも納得した様子で、きっと前向きに考えるのだろうと思えました。

一方、男性同士のペアの方は、たぶん何かの営業職の取りまとめ役とおぼしき人と、そこで働くかどうかを迷っている若者というお二人でした。
基本的にはどんな仕事ぶりかという説明ではあるものの、話し方がどうも勧誘っぽく、「最後は自分次第だよ」なんて言ってはいるものの、駆け引きをしている様子がありありです。きっと入社させると何らかの金銭的メリットか何かがあるのでしょう。純粋に相手のために話しているというより、自分の成績のために話しているという印象で、はっきり言ってしまえば少々うさんくさい感じでした。話を聞いている若者も、最後まで不安そうな表情でした。

同じような構図で同じような話なのに、なぜこんなに印象が違うのかということですが、同じような関係性のペアに見えてはいるものの、大きな違いとして思ったことが三つあります。

まずは「立場の違い」
やはりお店のオーナーの立場と、まとめ役とは言いながら雇われている立場とは大きく違います。自分で雇おうとする人と、うまく口利きするとお金がもらえる人とでは、違いがあることは当然かもしれません。

次に「男女の違い」
これは男だから女だからということではないかもしれませんが、前向きさやたくましさを感じたのは女性同士のペアでした。最近の企業の現場でも、同じような感覚を持つことがあったので、やっぱり何か違いはあるのだと思います。

最後は「コミュニケーション能力の違い」
やはりこれが一番の違いであるように感じます。ここでの最も大きな違いは、相手の立場に立って話したか、自分の都合中心で話したかの違いです。相手の立場を考えて話ができるかどうかは、良いコミュニケーションの大きな要素の一つなので、これができていないということは、やはり能力の違いがあるということでしょう。

同じようなことを伝えようとしているにもかかわらず、相手の立場を考えて話せるかどうかで、相手や周囲に与える印象は大きく変わってしまっています。良いコミュニケーションが成立しないと、せっかくの話も良い方向には進みづらくなってしまうでしょう。

どんなに対決的な場面であったとしても、相手の事情を考えた上でのコミュニケーションは、やっぱり重要だと思います。


2014年3月3日月曜日

浅田真央さんに学ぶ「万人に好かれて応援される秘訣」


フィギュアスケートの取材を20年以上しているという、ある女性ジャーナリストの記事に書かれていた浅田真央さんに関するお話からです。

このジャーナリストの方は、浅田さんのお母様と年に何回か手紙をやりとりするような仲だったそうですが、記事の中で浅田真央さんについて、「常に大勢の人に囲まれ、心が安らぐ時間などほとんどなさそうに見えるが、彼女が他人に対して粗野にふるまったり、うんざりした顔を見せたりするところを、一度も目にしたことがなく、愚痴っぽいことも、言い訳めいたことも、彼女の口から語られるのを聞いた記憶がない」と書かれていました。
ソチ五輪の際も、多くの報道陣に囲まれながら、浅田選手は「危ないですよ」「ゆっくり歩きますよ」などと周りを気づかい、にこやかに対応していたそうです。

この方は、浅田選手の「他人の行動を悪意に解釈しない懐の深さは、両親によって育まれたものに違いない」と書かれています。浅田さんが万人に愛され、多くの人から応援され、感動さえも与えるというのは、そんな彼女の人間性を、スケートの滑りを通して多くの人が感じているからではないだろうか、ということでした。

私は、この「他人の行動を悪意に解釈しない」という部分に、強く感じるものがありました。最近の世の中の傾向が、これとは反対方向に行っているような気がしたからです。

例えば○○クレイマーや、SNSの炎上などを見ていると、確かに当事者の行動に問題はあるでしょうし、中には糾弾されて当然の行為もあるものの、全般的に「他人の行動」に対しての批判や非難の度合いが、やけに強くなっている感じがします。自分との価値観の違いや意見の違いが、許せない様子の人が増えているように思います。「他人の行動」に厳しい傾向、他人を無視して物事を強引に進める傾向を感じます。

もしも自分で何か事を成し遂げたいと考えた時、なかなか自分だけでできるものではありません。必ず味方になって応援してくれる人が必要で、そういう人は多いに越したことはないでしょう。
自分の夢や希望を実現するためには、多くの味方が必要だということですが、これを逆から見れば、多くの味方がいる人ならば、自分の夢や希望を実現できる確率が高くなるとも言えます。

多くの人に応援してもらうには、万人から好かれることが必要だと思いますが、そのための秘訣の一つが、この「他人の行動を悪意に捉えないこと」ということです。つまり他人に寛容であることを実践していけば、夢や希望を実現できる確率が上がるということになります。

ただ、実際には、その時その時の自分の心の余裕であったり、持って生まれた性格の問題もあったりして、他人に寛容であることはなかなか難しいこともあるでしょう。私自身だって、どんなに意識したとしても、浅田さんのようには絶対にできないと思います。

それでも意識するのとしないのとでは、やはり大きく違うと思います。「他人の行動を悪意に捉えないこと」が、自分の可能性を広げることにつながるならば、浅田真央さんの行動をお手本に、まずは自分のために実行してみてはどうかと思います。