2014年2月28日金曜日

ごく普通の商店の「創立55周年」



近所の商店街を歩いていて、ふと見ると「おかげさまで55周年」という張り紙が目に入りました。

私の知り合いの中にも、とても社歴が長い企業はあり、2代、3代と続いている立派な企業がたくさんありますが、どの会社もそれなりに強みを持っていたり特徴があったりと、何となく続く理由がわかるというようなところがあります。

ただ、このご近所のお店は、昔ながらのせともの屋さんで、確か年配のご夫婦が経営されていたと思います。古くからあるのは知っていましたが、そんなに目立つ店でも特徴がある店でもありませんし、それほど高級品を扱っている様子ではないので、商品の単価は決して高いものではないでしょう。

そもそも食器類ってそんなに頻繁に買うものではない気がしますし、最近であれば、安いものは100均でも買え、他にデザイン性がある海外ブランドのお店などもあり、きっと競争は激しいのではないかと思います。

お店の長寿の秘訣はそれなりにあると思いますが、扱っている商品の性格上、何か流行に乗って爆発的に売れることはないでしょうし、お客さんが行列するようなこともないでしょうから、ずいぶん苦労もされたのではないかと思います。

そんなことを考えながらこの「おかげさまで55周年」を見ていたら、何かすごい偉業のように思えるのです。
一見特徴が無そうな、失礼ながら平凡に見えるお店も、それだけの歴史を重ねてきているということは、きっと毎日コツコツとコンスタントに、欲をかかずに常に地道に継続ということだったのではないかと思います。それで55年間というのは、ちょっとやそっとの長さではありません。

特徴を出してエッジをたててという形で勝負する企業はありますが、このやり方だと瞬間風速は出せてもいずれしぼんで行ってしまいます。だから次々と新しいものにチャレンジし、瞬間風速を起こし続けなければなりません。そのエネルギーも発想もとても素晴らしいと思いますが、このお店の経営手法はきっとその対極にあります。

「経営」は「継栄」であるという言葉を聞いたことがあります。会社は継続して栄えてこそ意味があるということです。
あらためて継続することの大切さと、そのための方法は一つではないということを考えた一件でした。

2014年2月26日水曜日

「個」に注目することが必要な時代


最近のカフェや飲食店でのサービスを見ていると、マニュアルだけで済ませないサービスの割合が増えてきているように感じます。
必要なマナー、言葉づかいといった点で共通のベースはあるものの、それ以上は個々のスタッフが、それぞれの顧客の様子を見て、それぞれの事情に合わせたより良い対応を考えながら接している感じがします。

マニュアル的な要素が強いと、訓練された安心感はありますが、笑顔や丁寧さがあるにもかかわらず、少し事務的な印象は否めません。また、マニュアルで想定された道筋からちょっと外れると、急にスムーズさがなくなります。
これに対して、個別対応をしているようなところは、スタッフによる差や多少のゆるさを感じるときはありますが、何となくあったかい感じがします。

この感覚の違いが何かを考えると、自分の意思確認をどのくらいしてくれているかの程度の違い、もっと単純化すると、どのくらい自分の話を聞いてくれたかという、プロセスへの手間のかけ方の違いのような気がします。

今のように人々の価値観が多様化して来ている中で、初めから枠をはめ、やり方を決めてしまっていると、その枠からはみ出してしまう人が増えていきますから、それを防ぐために現場レベルで臨機応変に判断する、個別対応のサービスが必要になってきているということでしょう。

「個」への注目ということでは、一般的な組織マネジメントの中でも同じことが言え、ほんの少し前までは、地位や肩書、高額報酬、もうちょっと程度が悪いと気合や根性のような精神論、「昔はこうだった」という過去との比較など、ある枠にはめた上でのモチベーション施策、キャリアデザインが行われてきました。

今は個々の資質、性格、適性、経験といった点に目を向け、キャリアデザインも人材育成の方法も、その人に応じた個別対応の形にどんどん移行しています。この個別対応の流れについていけない人が、「今どきの若い奴は・・・」「昔だったら・・・」と言っている頻度が多いように感じます。

社員の職業観やモチベーションの源泉は、どんどん変わってきており、なおかつ多様化しているので、現場を預かるリーダーにとって、マネジメントにおける手間はどんどん増えている状況です。
しかし、会社全体としての取り組みは、いまだに過去の画一的なマネジメントと同じ意識のことが多いです。当然それほどの対策もとられず、必然的に現場のリーダー、マネージャーにしわ寄せが行くことになります。

これが、マネジメントに専念できるようなある程度の余力があるリーダー、マネージャーであれば何とか対応しますが、プレイングも担っているようなマネージャーは、なかなか今まで以上に手間をかける余力が無く、やむを得ず手を抜くしかありません。

ただ、だからといって何かマネジメントのための制度を作ったり、リーダーやマネージャーの数を増やしたからといって、今度は管理コストが上がってしまうので、それはそれで好ましいことではありません。

やはりこれからは、手取り足取りしなくてもよい自律した人材、セルフマネジメントができる人材をどうやって育てていくかが、企業としての大きなテーマになってくるのだろうと思います。

どんな分野であっても、これからは個に注目しなければやっていけない時代です。
企業の中での人材マネジメントにおいても、「個」への対応ができるような仕組み、体制を考えていかなければならないと思います。


2014年2月24日月曜日

仕組みを制約と考える人と仕組みを使いこなす人


私が策定をお手伝いすることが多い人事制度は、組織の仕組みの一つという位置づけです。組織における制度化や仕組みづくりというのは、それによって作業や手順を定型化することで、プロセスを効率化したり、質を均一に保つことを目的として行います。

しかし、その会社の状況によっては、組織上の制度や仕組みを、自分たちの仕事上の制約や縛りという捉え方をされることがあります。

制度や仕組みが確立していない中小企業の方がそういう捉え方をしがちですが、結局は自分たちが自己判断で行ってきたやり方から、制度や仕組みで決めたやり方に変えなければならないことを、非効率、無駄、非合理的といった言い方で拒もうとします。

組織の制度や仕組みを、自分の仕事上の「制約」と捉え、それは面倒でやりたくないことという態度になります。その人にとって、制度で決められたことというのは、単なる作業でしかないということです。

その一方で、決められた仕組みをうまく使いこなそうという人がいます。
人事制度であれば、本来の目的の一つとして、現場のマネジメントを支援するという役割があります。例えば人事制度の中に、評価面談という仕組みを設けていることが多いですが、これは現場の上司部下のコミュニケーションの場作り、共通の話題作りという側面を持っています。

仕組みがなければ、たくさん話すところとそうでないところに分かれてしまいますし、話しても当たり障りがない雑談ばかりで、評価やキャリアプランといった肝心の話題で話すことはないかもしれません。しかし、仕組みに則って実施すれば、上司自身が場作りや共通の話題作りをしなくてもよくなり、うまく使えばマネジメント効率は上がるはずです。これを理解している人は、制度や仕組みを積極的に使おうとします。

また、こういう人たちは、可能な範囲で制度運用をアレンジしながらうまく使い、制度自体をより使いやすい形に変えようと、積極的に働きかけてきます。おかげで制度と運用が良いサイクルで回るようになります。

制度や仕組みというのは、制約や縛りという側面を確かに持っています。実際に「制度運用のための制度」のようなものが作られ、決めごとが多すぎて逆に非効率を生んでいるようなこともあります。
それでは本末転倒ですが、組織の効率化のためには適切な制度や仕組みと、臨機応変な運用のバランスが必要です。

制度や仕組みと聞くと、どうしても面倒な手続きや裁量の制約と考えがちですが、逆に制度や仕組みがなかったとすれば、効率的な組織運営は難しくなります。

仕組みを単なる制約と考えず、うまく利用して使いこなしていく姿勢が必要だと思います。


2014年2月21日金曜日

「追い出し部屋」と「逆・追い出し部屋」


会社が辞めさせたいと考える社員に対して、自主退職に追い込むことを目的として設けられた「追い出し部屋」の問題が取り上げられるようになってから、ずいぶん時間が経ちました。

結構な有名企業が多数指摘を受け、社長名などでその存在を否定したりしていますが、これだけいろいろなところから話が出て来るということは、やはり何らかの行為があったと考える方が自然でしょう。

中には「解雇規制が厳しいからこんなことが起こる」と発言する経営者がいるようですが、同じ論法でいけば、「制限速度があるからスピード違反が増える」といっているようなものなので、ちょっと逆ギレの論外な話のように感じます。

また、この「追い出し部屋」の逆パターンにあたる、「逆・追い出し部屋」なるものがあるそうです。他に転職できる先がないことを見越して、低賃金でつらい仕事を続けさせ、本人が辞めたいと言っても絶対に辞めさせないように仕向けるのだそうです。

いかにして本人に辞めると言わせるかに力を使う「追い出し部屋」と、かたや、いかに安くこき使って辞めさせないかを工夫する「逆・追い出し部屋」ということで、どちらも相手の弱みに付け込んでひどいと思いますが、一方で、そこまで会社に振り回されても、なおかつ会社にしがみつかなければならない事情の人たちが大勢いるということにも、少し問題を感じます。

もちろんローンなどの借金を抱えていたり、貯えに余裕がなかったりするなど、事情がある人はたくさんいるでしょう。年齢が上がるほど再就職が難しくなるということも確かにあります。

しかし、自分が持っている仕事の能力面で考えた時、それほど外の環境では使い物にならない、潰しが効かないローカルなスキルばかりのはずはないと思います。もしも仕事の能力が本当にその程度だとしたら、会社依存の度が過ぎて、スキルアップの努力を怠っていたと言わざるを得ないでしょう。

採用活動でも同じことが言えますが、これは結局、人を雇用する会社の側と、そこで働く人との力関係のバランスが偏っていることで起こってしまう問題です。

雇う側の方が力関係は強くなりがちなので、何らかの規制が必要なことは間違いありませんが、働く人たちの側でも、バランスを取り戻す工夫、努力、取り組みが必要だと思います。
力関係がきちんとバランスするようになって来れば、こんなイヤな話はずいぶん減ってくるのではないかと思います。


2014年2月19日水曜日

「数字がモチベーションにつながる」と断言できるのか


あるお店でのことですが、まったく知らない隣の人の会話がやけに気になってしまいました。

たぶん、どこかの会社の経営者の方と、その管理職か社外ブレーンかという感じの方の会話で、「やっぱり数字はモチベーションにつながりますからね!」とお互いに確認し合っていました。

確かに結果が数字で見えると、目標達成したのかしないのかはわかりやすいし、もし未達成だとしても、あとどのくらいで達成できたのかという距離感を測ることができます。結果が目に見えるということがモチベーションにつながることはあると思います。

でも、本当にそう言い切ってしまって良いのでしょうか・・・。

数字はできた時の達成感にはつながるかもしれませんが、逆に達成できなかった時はより残酷に結果を示します。はっきり見えるがゆえに、ノルマとして強制されやすい面もあります。

また、いくら数字で測ると言っても、やはり数字で見えない環境、努力、巡り合わせ、その他のプロセスがあります。偶然の目標達成と人一倍努力しての未達は、ビジネス的には結果がすべてでしょうが、組織での人扱いを考えると、一概にそれでは難があります。

何よりも最近の傾向として、数字には必ずしもモチベーションを感じないという価値観があります。それよりも他人の喜びとか感謝とか、社会貢献といったことにやりがいを見出します。非常に主観的な部分なので、感じ方は本当に人それぞれです。

今のモチベーションというのは、どんどん多様化してきています。かつてのように上昇志向をあおるだけでは、なかなかうまくいきません。

モチベーションに関することを、自分の経験や価値観だけで言い切ってしまうのは、今の環境の中では少々危険ではないかと思います。


2014年2月17日月曜日

良い転職につながる一つの要素


転職という形で仕事の環境を変えることで、それが良い結果になることもあまりそうではないことも、どちらの場合もあると思います。

転職については、私もいろいろな方から意見を求められ、その人に応じていろいろお話をします。中にはあえて環境を変えない方が良いと感じることもありますが、そう思った人が実際に転職をすることになり、ご本人からその後の様子を聞いたりすると、あまり良い状況になっていないことが多々あるのも事実です。

これは稀なことかもしれませんが、何度も転職を重ねるごとに、行き先の会社規模は小さくなり、仕事内容は限定的になり、給料も下がっていくような、何のための転職かわからないようなことを目にしたこともあります。
そういう様子を目にしてきた中で、私の基本的な考え方としては、「まずは今いる場所でできることを精一杯やってから転職を考えるべき」というように思っています。

その考え自体は間違いではないと思いますが、先日見ていたテレビ番組の中で、ちょっと考えさせられることがありました。

小学生ながら天才的な俳人で、句集も出版して売れているという子の話題でしたが、その子は自分の学校でいじめにあっていて、なかなかスムーズに通えていないのだそうです。そんな中で、別のある小学校で彼の俳句を教材に使っているところがあり、彼がその学校を訪ねた時の様子が放映されていました。

訪ねた先の学校の子たちは、彼がいじめにあっていることも作品を通じて知っており、暖かくクラスに迎え入れ、みんなで優しく声をかけ、本当に昔からの友達のように接していました。

訪ねた彼も、自分の学校ではそれなりの配慮をしてもらってはいるものの、なかなか通えなかったり、行っても一人ぼっちだったりしていた状況から一変して、本来の学校生活の楽しさを感じることができ、途中からずっとうれし泣きで涙が止まらなかったようでした。

私はこの子に「今いる環境でできることをやりなさい」とは、やっぱり言えません。自分でどう振る舞っても、相手にいじめをやめさせることはなかなかできないでしょう。でも、ちょっと環境を変えれば、自分のことを理解して、暖かく迎え入れてくれる人たちがいるのです。彼がこの訪問先の学校に通う事ができるとしたら、きっと楽しく豊かな学校生活が送れるように思います。

転職においても、きっと同じような場面はあるはずです。相手が自分を十分に理解してくれていて、来てくれることを心から望まれていて、その上で自分がやりたい仕事がそこにあるとすれば、あえて今の環境に残る意義はないかもしれません。。

もしも新たな環境に、今以上に自分を理解してくれる人がいるならば、今の仕事環境を変える転職という選択が、良い結果につながる確率は高まるのではないかと思います。
新たな行き先に自分の理解者がどのくらいいるかということが、良い転職ができるかどうかの大きな要素の一つではないかと思います。


2014年2月14日金曜日

いつもいてくれないと困る?


私が企業人事のご支援をするという際は、社外人材としてある限られた時間の範囲内、または決められた生産物の請負という形でお手伝いをします。ですからよほどの専任契約でない限りは、いつもその場にいて、顧客がすぐに声を掛けられる状態で仕事をするということはほとんどありません。
 限られた時間の中で、最大限のパフォーマンスを出すことが、私たちの役目だと思っています。

ただ、ある会社にうかがった時に、その担当の方から「いつもいてくれる人じゃないと、あまり意味がないし困るんだよなぁ・・・」と言われたことがあります。
その会社は、パートのような時間限定の社員は一人もおらず、しいていえば、育児休業明けの社員に法律最低限の短時間勤務を認めている程度です。

私は単純に、パートタイマー的な人材を使い慣れていないから、そんな話が出てくるのだろうと思ったのですが、少し意識して観察してみると、どうもそれだけではありません。

まず想像通りだったのは、全社的に結構な長時間労働で、とても残業が多い環境です。その一番の理由は、とにかくやたらと会議や打ち合わせが多いということでした。
また、それがきちんと予定された定例的なものだけでなく、「AくんとBさん、ちょっといいかな」という感じで、主に上司から呼び止められ、予定外の打ち合わせが急に始まります。そしてそれが当たり前のように2時間3時間と続きます。

各自が予定していた仕事は当然進まず、みんな残業になっていきます。また、その残業時間であっても、「ちょっといいかな」と打ち合わせが始まったりします。
 あまりはっきりとした議題がある会議ではなく、とりあえず打ち合わせをしようという感じが強いようです。

何か要件を思いついた時に、すぐに打ち合わせができるようにしておくためには、「いつもいてくれないと困る」という訳です。はっきり言って、あまりにも行き当たりばったりで作業効率が悪いと感じます。

 もう一点は、お互いがやっている仕事に関する情報共有があまりないということです。人は人、自分は自分で、個別に作業を進めています。マネージャーもあまり情報共有の意識はなく、それぞれがやっている仕事は、非常に属人的な形で進んで行きます。
何かあるとその担当者がいなければ周りの人は何もわからないので、やっぱり「いつもいてくれないと困る」となります。

今どきの人気企業や好業績企業であれば、こういう作業スタイルを最も非効率と考えて問題視していますが、この会社は世の中の方向とは正反対を行っている訳です。業務改善の突っ込みどころ満載ということですが、実際に働いている皆さんは、何も言わずにこの状況に従っています。不満に思っているけど言えないのか、それとも何とも思っていないのかはわかりません。

 実はこういう会社は、意外にまだまだ多いのではないかと思います。働き方の意識を変えるには、経営者にその意識があるかどうかは大きな要素ですが、大体においては古い意識のまま根づいてしまっています。おかしいと思う人がいたとしても、そう簡単には変えられませんが、やはりそれは好ましくないことです。。

もっといろいろな働き方が受け入れられるように、作業の効率化や情報共有を進めていって、「いつもいてくれないと困る」という意識から抜け出さないと、今の時代からはどんどん遅れて行ってしまうように思います。


2014年2月12日水曜日

「身内」と「他人」の壁


最近いろいろなところで感じることですが、「自分とは意見が違う人と話し合うこと」を避ける傾向が多いように思います。

自分と意見が合う人、気が合う人は自分の「身内」として、頻繁に意見を聴いたりコミュニケーションを取ったりしますが、自分の考えとはちょっと違うとなると、一気に「他人」という扱いでコミュニケーションを取らなくなります。「身内」の意見は良く聴くけれども、「他人」の意見はほとんど聴かないという極端な感じがします。

この結果としてどんなことが起きるかというと、これが会社であれば、組織全体としてのコミュニケーション不足であり、さらに進むと他責傾向、セクショナリズム、情報や人の囲い込みなどが始まります。

この話と共通している気がすることに、公共の場での人の振る舞いの話があります。電車内などで飲食をしたり化粧をしたり、まるで自分の部屋にいるように振る舞っている場面に出会うことが増えましたが、この理由として「どうせ他人しか見ていないから」ということがあるのだそうです。

「他人」だから、見られても別に恥ずかしくはないし、どう思われても大して気にならないし、どうせもう二度と会わないだろうなどという感覚です。自分の視野の中には「身内」ばかりがあり、「他人」のことは、どんどん軽視されている感じがします。

組織で物事を決めるためには、良いか悪いかは別にして、時には事前の根回しも必要で、そのためには相手の説得や歩み寄りも必要になります。
相手の考え方やその背景などを知らなければ、説得も歩み寄りもできませんが、「身内」に対してはそれができても、「他人」に対して、その立場や考え方を理解するということは、苦手な人が増えているように感じます。

みんな仲良しで気心知れた「身内」ばかりの組織であれば、「他人」のことなど考える必要はありませんが、普通であれば、組織の中には「身内」も「他人」も混在しています。

いろいろな会社で実際に議論する場面を見ていると、一方的に自分の主張だけはするものの、では具体的にどうするかといったときに、落としどころを全く考えていないことが増えている感じがします。
「身内」に通じる話はできて、その中ではそうだ!そうだ!となるけれど、少しでも「他人」が混じってくると、議論が急激に滞ってきます。やたら攻撃的になったり、逆に全く黙ってしまったりします。

どうも最近、「敵」と「味方」、「身内」と「他人」というように、相手との関係性を単純化した枠組みに押し込めようとする傾向が強いように思います。でもこれでは部分最適にすることはできても、全体最適にはなりません。

「あの部門は・・・」「あの部長は・・・」「あの社員は・・・」などと線引きしてコミュニケーションを避けていると、組織全体としての調整能力はどんどんなくなり、部分最適ばかりの誤った方向に進んで行きかねません。

今ある「身内」と「他人」の壁は、もう少し低くなっても良いのではないかと思います。


2014年2月10日月曜日

「自律的、自発的な部下」の困ること


部下を持つ立場の多くの管理職の方々は、「自律的に判断して、自発的に動ける部下」を求め、そういう人材はなかなかいないと嘆いたりします。

もしもそういう部下がいたとしたら、確かに優秀な人には間違いないでしょうが、ただこの「自律的、自発的」を、多くの部下たちが本当に実践したとしたら、上司としては、実は結構困った感じになることも多いのではないかと思います。

「自律的、自発的」ということは、裏を返せば「いちいち指示を仰がない」ということでもあります。放っておくとコミュニケーションの量は少なくなってしまいます。
これが途中経過をマメに報告してくるならば良いですが、「自分で考えて判断するタイプの部下」は往々にして、あまり経過報告をしてこないことが多いものです。

上司としては、指示した仕事の状況が今どうなっているかが、とてもわかりづらくなりますから、いちいち経過報告を求めざるを得なくなります。上司が部下に報告を求めるのは当然ですし、部下の立場では上司への報告は基本的に業務上の義務ですから、これをしっかりこなすのもまた当然のことですが、「自律的、自発的な部下」は、これを「上司に口出しされている」というネガティブな捉え方をすることがあります。こうなるとできるだけ少ない報告や、後付けの事後報告で済まそうとし始めます。

管理職の方々が「自律的に判断して、自発的に動ける部下」と言っているのは、実際には「自分が全面的に信頼している部下で・・・」という前提が付いています。そういう信頼関係が築けている部下であれば、細かい経過報告がそれほどなかったとしても、ほぼ安心していられるでしょうが、そうでない部下が「自律的、自発的」に動き始めたとしたら、マネジメントとして困るはずですし、そういう人はただの使いにくい部下になってしまいます。

これを避けるためには、報告の内容や頻度を決めておく必要があります。「君に任せているのはここまで」という線引きをはっきりさせておくことです。途中であいまいな部分が出てくることもありますが、それもやっぱりその都度決めていくしかありません。
部下の立場からすれば、初めに言われていないことを要求されると「口出し」と捉えるかもしれませんが、事前に提示されていれば、それは「口出し」ではありません。

「自律的、自発的」な部下ほど、具体的に指示されていないことは任されているものだと自己判断して動きがちです。どこまで権限委譲するのかを明確にしていかないと、ただの使いにくい部下がどんどん増えてしまうかもしれません。
「自律的、自発的」というせっかくのすばらしい素養を持った人材です。良い距離感でのコミュニケーションを取ることで、うまく育てていければ良いと思います。


2014年2月7日金曜日

頑張ったってどうせ大差がない?


会社として、社員のモチベーションアップを考えるにあたっては、仕組みや制度、仕事の与え方や指導方法、人間関係作りやキャリアプラン作り、その他いろいろな施策をからめて考えて行きます。今でも「社員のやる気なんて結局は給料次第」などとおっしゃる方もいますが、残念ながら人間はそれほど単純ではありません。

そんなモチベーションアップ、動機づけのための施策を行っている中で、こういう言い方をする社員がいます。

「頑張ったって、どうせ大した差は出ないから、そこまでやりたくありません。」

人事評価などで仮に良い評価をもらったとしても、一気に給与が上がる訳でもないし、急に出世する訳でもないし、仕事内容が良くなる訳でもないから、別にそんなにやる気を出さなくても、ほどほどに今のままでやっていれば良いというようなニュアンスです。

確かに大きな歩合給のような制度を取り入れている企業の営業職などであれば、やったかやらないか(というより結果が出たか出ないか)によって、給与の処遇は大きく変動しますが、他の一般的な企業や職種では、その部分のメリハリはそれほどではないこの方が多いかもしれません。

こんなことから、「ではもっと評価による給料差をつけよう」とか「年齢に関係なくどんどん昇格させよう」という話が出てきますが、では本当にそうすれば、前述の発言をした張本人は、やる気を出して頑張るようになるのでしょうか?

もちろんそれをきっかけに頑張り始める人もいるでしょうが、この手の発言をする多くの人に話を聞いた私の経験で感じるのは、残念ながらそうではありません。

例えば、自分の仕事のパフォーマンスがいまいちだったとして、「やる気を出せばできる」「やる気が出ないのは周りのせいで仕方ない」といえば、いかにも実力を温存しているように聞こえますが、実際にはそれが本人の能力不足ということも多分にあります。
初めは本当にやる気が出ずに力をセーブしていたのかもしれませんが、その状態はいつの間にか自分の中に定着し、いざセーブしていた能力を使おうと思った時には、もうその力は消えてしまっています。

また、仕事自体への優先順位が低い、責任感をあまり持っていないというような人であれば、そもそも仕事に対する「やる気」自体を持ち合わせていないので、どんなに周りの環境が変わっても、本人の行動に変化はありません。
こういうものは、その人にしっかりと定着してしまっている職業観でもあるので、これを突き崩すことはなかなか難しく、時間も労力もかかります。

こう考えると、「頑張ったってどうせ大差がない」という人の多くは、「差がつくようになっても頑張りはしない」ということです。「頑張ったって・・・」という言葉の背景には、言い訳の要素が多分にあります。

ただ、頑張りの量に比例するかは別にして、差がないということは絶対にないと思います。他人からの信頼、自分のスキル、能力などの何かしらが、必ずプラス方向に変わってくるはずです。

やる気が出ないなどと斜に構えていると、結局損するのは自分です。
「頑張ったってどうせ大差がない」と一度でも思ったことがあるならば、自分のやる気のなさを一方的に周りのせいにしていないか、今一度見直すことが必要だと思います。


2014年2月5日水曜日

「気づく感性」が大事な危機管理


少し前に話題として上ることが多く、今でもまったく解決している訳ではないカネボウ化粧品の白斑被害の話ですが、実は2011年ごろからすでに苦情としてあがっていたそうです。
しかし、化粧品が原因ではないということで内部処理されていて、その結果、対応が後手になってしまい、被害が拡大してしまったということのようです。

商品トラブルへの対応について、社内にそれなりの仕組みはあったようですが、それがうまく機能しなかったということです。

いくら仕組みがあっても、そこにあがってきた情報をどう分類してどう判断するかは、最終的には対応する人の問題になるので、結局はその人に危機を察知できる感性があるかどうかにかかってきます。
これほど大きな問題にはならなかったとしても、こういうたぐいのことは実はどこの会社でも、何かしらあるはずです。

ある企業の工場の話ですが、同じ設備で同じオペレーションで同じマニュアルで操業しているにもかかわらず、不良品率がいつも高いところといつも低いところがあるのだそうです。

その違いが何かを聞いてみると、不良品率が低い工場には品質意識が高い熟練の技術者がいて、「こういう時にはこんな不具合が出やすい」「この作業はここを注意した方が良い」など、マニュアルだけにとらわれず、作業者のスキル、作業の難易度、さらには気候や原材料の状態といったところまで、総合的に見極めた上での予防的な管理をしているのだそうです。

マニュアル化できるのは最低限のところまでで、それ以上のところ、やっぱり最後は“人”次第ということです。

よく「最悪の事態を想定しろ」と言いますが、どうなることが最悪なのかを想像する力がないとできません。状況把握のための情報収集、適切な判断のための経験値も必要でしょう。
少なくとも関係者が「最悪はどんな状態なのか」を常に想定しているだけでも、危機管理のレベルはずいぶんマシになるように思います。

いかに気づく事ができるかの「人間の感性」が実は最も重要で、それをどうやって研ぎ澄ましていくかということが、本当の危機管理につながっていくのではないかと思います。


2014年2月3日月曜日

「人を見る目がある」の本当の意味


私のように人事という仕事にたずさわっていたり、人のマネジメントに関わったりする方々にとって、「人を見る目」の有り無しというのは、結構大切なスキルだと思います。
私自身、「人を見る目」というのはそれなりにあるつもりでいましたが、それを反省しなければならないようなお話を聞き、今回はその自戒を込めてのお話です。

一般的な感覚で「人を見る目がある人」と言われると、たぶん相手の行動やしぐさ、表情などの一部の様子を見て、「この人はこんな性格、特性、能力」というような全体につながることが、いろいろわかってしまうような人のことを指しているのではないかと思います。一を見て十を知るというようなことです。

それが本当にできれば素晴らしいと思いますが、人間がそのためにどんな思考をするかというと、多くの場合は自分の思いや価値観に照らして、例えば「お箸の持ち方が良い人は家庭教育が行き届いている」「体育会出身者は根性がある」「ゆとり世代は協調性が足りない」などという見方をします。
本人にとっては、自分の過去の経験から得てきた法則なので、合理的で根拠があることだと思っていますが、これが本当に「人を見る目がある」といえるのかということです。

どんな人でも多かれ少なかれ「思い込み」というものがあります。実はこの「思い込み」がくせ者で、人間はこの自分の「思い込み」に合っていることは強く印象付けられて強化され、逆に「思い込み」に合わないことは無視して印象に残らないという特性があります。
ですから、自分の過去の経験というのは、単にこの思い込みを形成しているだけとも言え、その始まりは、実は何も根拠がなかったりするのではないかということです。

“お箸の持ち方が良い人の行き届いた家庭教育”も、“体育会出身者の根性”も、“ゆとり世代の協調性”も、はっきり言ってそんな一括りでは語れないような、いろいろな人がいます。
そもそも“行き届いた家庭教育”とはどんな教育なのか、“根性がある”とはどんな状態を指しているのか、“協調性がない”とはどんなレベルのことを言っているのか、結局は見る人それぞれの主観であり、はっきりした基準はありません。

お話で言われたのは、「人を見る目の基本とは、いかに相手に対する思い込みを持たずに耐えられるかどうかである」ということでした。もっと簡略に言うと、「“人を見る目がある人”というのは、“○○な人は××だ”という見方をしない人」ということになります。「人を見る目がある」と思っていた多くの人が、実際にはこれと反対のことをしてきたのではないかというように感じます。

私自身も、自分では「思い込みで相手を評価しない人間」だと思っていましたが、それは「思い込みで相手を見ないと自分勝手に思い込んでいる人間」ということだったのかもしれません。

やっぱり「人を見る目」なんてそんな簡単に身に付くものではないし、絶対にたどり着かない永遠のテーマなんだと思います。自分もまだまだ修行が足りません。