2014年6月30日月曜日

「在宅勤務はやりたくない」と言っていた男性たち


消費者庁では全管理職26人が、7月から週1日、自宅で勤務をすると発表しました。子育てや介護中の職員が在宅勤務をしやすくなるように、管理職の理解を広めるのが狙いで、「企業にワークライフバランスを推奨している霞が関から手本を示したい」ということだそうです。

特に震災直後のことですが、事業継続計画(BCP)との関係もあって、在宅勤務の導入を検討する企業が増えてきて、私もそのために必要な人事制度のセミナーなどを依頼されたことがありました。

その際にいろいろ調べていた中で、「在宅勤務をやりたいか?」という調査をした結果があり、そこでは「制度があれば利用したい」が約4割、「制度があっても利用したくない」が2割、「わからない」が4割と、みんながそれほど前向きにやりたいと思っている訳ではないというデータがありました。

当時、私のセミナーに参加された方々にも同じことを聞いてみましたが、特に男性の半分近くは「やりたくない」との答えで、どんどん制度導入を進めていけば良いと思っていた私の考え方とは、どうも違う傾向のようでした。

なぜやりたくないのかの理由を聞いたところ、「家で仕事をしても集中できない」など、仕事とプライベートのケジメがつけづらいという話は当然ありましたが、「平日の昼間まで家族と顔を突き合わせているのは息苦しい」とか、「“会社に行く”という、出かけるのに最も正当な理由を放棄するのは嫌だ」など、仕事そのものとはあまり関係がない理由をおっしゃる方が結構いらっしゃいました。

こういう理由を述べる人のほぼ100%が男性で、これに対して女性の方は、「在宅勤務ができるならばやりたい」と前向きにとらえる人の方が、過半数を超えて多いという状況でした。ただ男性ほどではないにしても、やりたくないと答える人はやはりいらっしゃいました。

昨今の状況では、IT環境の進歩に伴って、在宅勤務を実施するためのハードルは、以前に比べて圧倒的に低くなっています。はっきり言って週に1日や2日の在宅勤務であれば、その気になりさえすればすぐに実施できる環境にあると思います。

ただ、在宅勤務の導入が思いのほか進まないのは、制度や技術の問題よりも、働く人たちの「職業観」の問題の方が間違いなく大きいのではないかと思います。

未だに多くの管理職は、自分の部下が物理的に目の届く範囲にいなければ管理しづらいと考え、部下も何かあったらすぐ話せる場所に上司がいた方が良いと考え、お互いにフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションでなければ本音が伝わらないと考え、仕事をする「場」をともにすることが必須であると考えていたりします。

こういう部分はもちろんあるので、それを否定はしませんが、例えばグローバルな環境でビジネスをしている会社では、働く場所も時間帯も異なるメンバーたちと一緒に仕事をしていかなければなりませんし、スピード重視の場面であれば、何でも現地に移動してやるという訳にもいきません。いつまでも昔ながらのやり方で、時間や場所を共有して仕事をしようとするばかりでは、だんだん立ち行かなくなってきています。

在宅勤務の導入可否が、働く人の「職業観」の問題が大きいとすれば、今回の消費者庁のように、「まずは無理やりにでもやらせる」ということも必要なのかもしれません。

在宅勤務のメリット、デメリットを実際に経験してみることで、これらの制度を前向きに活用していこうという「職業観」に変わっていけば良いのではないかと思います。


2014年6月27日金曜日

男女“差別”はダメだが男女“区別”は必要


ある打ち合わせをしている中で、「そういう仕事は女の子にやってもらえば良い」という発言がありました。

私自身も男ですし、どうしても男目線に偏ると思われるので、この感じ方が正しいのかはわかりませんが、会社での仕事が多岐に渡る中で、女性的な接し方や雰囲気の方が合っているし、どちらかと言えば好ましいのではないかと思う仕事は、特に人と直接接する仕事の中などでは確かにあると思います。

ただこの「女の子」というフレーズを言い出す方は、本質的な男女の特性に合った役割分担を考えているというよりは、わりと古いイメージの、いわゆる男尊女卑や、男は仕事で女は家庭というような価値観を持っていると感じることが多いです。

これとは逆に、「うちの仕事は女性には難しいところがあるんだよなあ」という話を、ある会社で聞きました。事情を伺うと「確かにそうかな」とは思うものの、もう少し工夫して女性にもやってもらおうと考えれば、どうにかできるという気もします。

最近は、かつて男性のみだった職種に女性が進出するなど、女性が活躍する場は昔に比べればずいぶん増えた気がしますが、その一方で、まだまだ差別的な扱いを見聞きすることはあります。
このところ、都議会でのセクハラやじの話題が多数取り上げられていますが、いろいろなところで出ている意見を見ていると、本音では「このくらい大したことはない」とか「これが正論」などと思っている人は、意外にたくさんいるような感じも受けます。

私が職場で女性と接する時に思っていることの基本として、「差別はダメだが区別は必要」という考え方があります。
例えば、力仕事のような体力に関わること、単独行動をする中で身の安全に関わるようなことなどは、「男も女も関係ない」とはどうしても言えません。

こういう考え方自体が差別だと言う人もいますが、だからといって本当に同じ扱いをすると、今度は女性への嫌がらせだなどという捉え方をされたりします。

このように、差別と区別の境目というのは、答えがあるようで無い感じがしますが、それでもやはり、区別することはどこかに必要だと思います。
基本的には個々の特性を見ることが大事で、男だから女だからという固定概念は持たない方が良いと思いますが、一般的に言われる男女の違いということも確実にあると思います。

「それは女の仕事」「それは女性には無理」などと決めつけず、ちょうど良い頃合いの区別ができれば、より良い職場環境が作っていけるのではないかと思います。


2014年6月25日水曜日

「会社は誰のものか」を決めようとする無意味さ


製薬最大手の武田薬品工業で、外国人社長の就任に対して、株主である創業一族や元経営幹部らが、「優良な創薬技術の国外流出」「研究者の社外流出」「外資の乗っ取り」といった理由を挙げていって反対しているのだそうです。

挙げられていることが実際にどうなのかは良くわからないところがありますし、他の株主が同調する動きも広がっていないようですが、実際に経営に関わってきた創業家や元幹部からすれば、「自分たちが作り上げてきた会社」が壊されていくように感じられ、それが我慢できなかったのだろうと思います。

他の会社でもこの手の話に関しては、例えば投資ファンドの動きなどをきっかけにして、「会社はいったい誰のものか」という話が出てくることがあります。

ここで実際に「会社は誰のものだろうか?」と考えてみると、まず社員では、「自分の所属している会社」とは思っているでしょうが、「会社は自分のもの」と考える人は、もしいたとしてもかなり少数派でしょう。

株主であれば、やはり「自分が投資している会社」、もしくは「思い入れがある会社」ではあるかもしれませんが、「会社は自分のもの」というほどの人は、社員の場合と同じく少ないでしょう。

経営者ということであれば、創業家やオーナー社長ということになれば、「会社は自分のもの」と思っている人はいそうですが、多くの経営者は会社が自分の力だけで成り立つものではないことがわかっていて、「最後に責任を取るのは自分」とは思っていても、「会社は自分のもの」とはっきり公言する人はあまり多くないのではないかと思います。、

結局、本音の部分で心の底から「会社は自分のもの」と思っている人は、たぶんそれほど多くなく、ごく一部の創業オーナーなどにこの意識がある程度ではないかと思います。

「会社は誰のものか」という議論が出てくるときに共通しているのは、経営者、社員、株主といったステークホルダーの間のバランスに偏りが見られるときのように感じます。

最近でいえば、「株主至上主義」のような傾向が強まっていた頃に、「会社は社員のもの」「従業員満足」といった考え方が出てきたり、私利私欲に行き過ぎたオーナー経営者に対して、他の従業員や株主が自浄作用を発揮してそれを解消するような動きをしたりします。

少し古いところでは、一部の労働組合で過度な要求に基づくストライキなどを繰り返した結果、一般からの支持を失って、労働運動自体が衰退に向かってしまったというようなこともあります。

会社というのは、経営者が強すぎても、株主が強すぎても、社員が強すぎても、結局はあまり良い状態ではなく、「会社が絶妙なバランスでみんなのものになっている状態」が最も良いのではないかと思います。良い状態の会社であれば、収益も上がり、株価も上がり、社員もハッピーになります。

「会社は誰のものか」を考えることは実は無意味なことで、「会社はみんなのもの」ということを前提に、その程よいバランスを見つけ出すことが、良い会社になる条件なのではないかと思います。


2014年6月23日月曜日

スタジアムの掃除が「実は仕事を奪っている」という話


サッカーのワールドカップの話題に、日本人のサポーターが試合後のスタジアムでゴミ拾いをしていることが、海外メディアから「礼儀正しい」などと賞賛されているという記事が出ていました。

この行動自体は、ワールドカップでは初出場のフランス大会の頃からやられていますし、国内のリーグ戦や親善試合でもわりと日常的に行われていることです。以前も同じように取り上げられて褒められていたことがあるので、今でも話題になるということは、海外ではそれだけ珍しいことなんだろうと思います。

日本人が褒められれば悪い気はしないですし、私は単純に良い行動だと思っていますが、あるコメントを見てちょっと考えさせられることがありました。

それは、この行為が海外では、「スタジアムでの清掃を仕事としている人から、仕事を奪ってしまっている」というマナー違反として捉えられるという話です。
それを仕事にしている人がいる限り、いくら親切心などであったとしても、他人の仕事を奪う行為は許されないという考え方だそうです。

なるほどそういう視点があるのかと思いながら、これと似た話は、特に日本の会社の中では結構よくある話なのではないかと思いました。

例えば、社内の清掃を社員と一緒になって行う社長さんの話があります。こういうことに対して、よく言われる捉え方は、「経営者の率先垂範」「偉ぶらずに社員目線で行動している」「社員との距離が近い」などという好意的な話です。

ただ、これも視点を変えて考えると、社内清掃は“必ずやらなければならないが付加価値がある訳ではない仕事”ですから、経済合理性でいえば、社内で最も給料が安い人、例えば新入社員などがやることが合理的です。

秘書がついているような経営者や役員などが、スケジューリングや電話応対やコピー取りなどを全部自分でやり始めたりすれば、「秘書の仕事を奪っている」と言えるでしょうし、部下に教えればできる仕事なのに、上司はそれを教えずに自分で抱えこんでいたとしたら、これも同じく「部下の仕事を奪っている」と言えます。

特に日本人的な心情として、雑用のような仕事を他人にやらせることは、ついつい気が引けてしまうところがあります。もちろんこれが会社のような場所ではない、それぞれの役割がイーブンな間柄であれば、雑用のたぐいは関係者の間で分かち合うということで良いと思います。

しかし、会社のようにそれぞれが担う役割が違っている場所では、経営者も役員も上司も、「自分以外でもできる仕事」はできるだけ他人にまかせ、「自分でなければできない仕事」に集中することが求められるはずです。

ただ実際にいろいろな会社を見ていると、このあたりの意識が希薄で、上司も部下も同じような内容の仕事を、みんなで分かち合っている場面に出会うことが多々あります。
特に上位の役職の人が「自分がやるべき仕事」「自分でなければできない仕事」を把握していないことは、会社として大きな問題であることは間違いありません。

「他人に迷惑をかけない」「自分のことは自分でする」ということは、とても大事な価値観だと思いますし、日本人が持ち続けてきた資質として、これからも大切にしていきたいと思います。
スタジアム清掃の話も、海外の人たちから褒められているということは、ただ「仕事を奪っている」という観点だけではない証拠だと思います。

その一方で、「その場での自分の役割に応じた行動を適切に選択する」という考え方も、どこかには持っておく必要があるのだろうと思います。


2014年6月20日金曜日

内定辞退阻止は早期退職促進?


来春の就職活動は、景気回復による売り手市場の様相です。

企業側では、内定辞退を恐れて、入社意欲を高めるノウハウを学ぶ「内定辞退防止研修」や、内々定者が交流するSNSを駆使しての引き留めなど懸命に動いているようで、そのSNSに“内定辞退予備軍発見機能”なるものを搭載するサービスもあるそうです。

内定辞退は、特に採用担当者にとっては避けたいことですから、私のこれまでの経験でも、いろいろな工夫をしてきたところです。
うまくいくこともいかないこともありますが、そもそも何をもってうまく行ったと言えるのかという基準は、ちょっと難しい気がします。

私自身の考えとして、内定辞退しそうな人に対してどんな対応をとったとしても、辞退する人は結局は辞退するものと思っていたので、そこまで積極的な引き留めをしたことはありません。どちらかというと、辞退しそうな人をできるだけ早く見極めて、早めに次の手を打って動いておくという意識の方が強かったです。

内定辞退者が出ると、採用担当者は会社から責められたりすることもあるので、できればそれは避けたいでしょうし、せっかく苦労して内定承諾までこぎつけた人を、何とか引き留めたいと思うのは当然だろうと思います。
会社の人材確保としても、内定者が優秀な人材であると見込んでいればいるほど、何とか自社で活躍してほしいと思うでしょう。
そんなことから、内定辞退阻止という意識が強くなっていくのだと思います。

ただ、これは私自身の経験で思うこととして、内定辞退阻止という意識で活動すればするほど、それが早期退職促進になってしまっているのではないかということです。結局は会社から離れていってしまう人が、会社からいなくなる時期を単に先延ばししただけ、内定辞退が早期退職に置き換わっただけになってしまうのではないかということです。

本人への期待を伝えるとか、内定者の両親なども含めて会社のことを理解してもらってファンになってもらうとか、そういう活動は絶対に必要です。でもそれは、ただ内定辞退を阻止するという目的ではなく、自社の理解をさらに深めてもらう、仕事をするイメージをより具体的につかんでもらうなど、社会人として前向きな気持ちでスムーズなスタートを切れるようにすることではないかと思います。

ですから、本音の部分で自社にフィットしていない人を、いくら引き留めたとしても、それは内定者の人生をゆがめているし、会社も無駄な先行投資をしていることになります。

内定辞退を「相性の合わない人が早めに答えを出した」と考えれば、あまり恐れすぎる必要はないのではないかと思います。


2014年6月18日水曜日

「通勤時間」がないから思う「通勤時間」の良さ


ある調査によると、「通勤時間が40~60分」の夫を持つ妻の6割が、「夫が家族サービスをしてくれる」と答え、仕事とプライベートの切り替えができていて、家族との心理的な距離も近いのだそうです。この通勤時間が長くなるほど、「家族サービスをしてくれる」という実感は減少傾向にあるということでした。

私自身、以前の会社員時代は、何度かの事務所移転があったりするなど、勤務場所が変わることはありましたが、どこも片道1時間半以上かかるところでしたので、どちらかと言えば遠距離通勤に近い部類だったと思います。

その当時は、とにかく通勤時間はムダだという感覚が強く、「わざわざ会社まで行かなくてもこんな仕事はできるのに・・・」といつも思っていました。

今は独立した個人事務所ですが、パソコンがあってネットにつながれば、資料作りや原稿書き、その他デスクワークのたぐいは、どこでもまったく同じ環境で仕事をすることができます。
電話はどこにいても転送されてきますし、ファックスはメールに変換されて送られてきます。そんな訳で、毎日決まった時間に決まった場所まで通勤する必要は、ほとんどなくなってしまいました。

まさに会社員時代に思い描いていた理想の状態になった訳で、これについては良かったと思っていますし、今もその気持ちはまったく変わっていません。

ただ、自分としては今の働き方に対しての違和感はまったくないものの、この調査結果を見ながら振り返ってみると、「仕事とプライベートの切り替え」「家族サービス」の部分では、ちょっと思い当たることがあります。たぶんどちらもできていないと感じるのです。通勤時間がないのに、遠距離通勤の人と同じ傾向があるように思うのです。

まず、「仕事とプライベートの切り替え」については、いつでもどこでも仕事になったりプライベートになったりするので、場所をキーにして切り替えをすることはできません。普通は会社にいれば仕事、家にいればプライベート、通勤時間はその切り替え時間というように分けられますが、私のような仕事のしかたではそれができません。

「家族サービス」という点でも、同じく仕事とプライベートの区別があいまいになっているので、しづらくなっていることは確かです。

こう考えると、言われている「通勤時間が40~60分」というのは、頭を切り替えるには短すぎず長すぎず、絶妙な時間のように思います。長すぎるのが良くないのはわかるとして、実は短すぎたり無かったりするのも、あまり良くないのかもしれません。

東京以外の地方都市では、「通勤時間が40~60分」というのは、おおむね平均的な時間であると聞きます。地方での生活の方が、心のゆとりが大きいと言われるのは、こんな部分にも理由があるのかもしれません。


2014年6月16日月曜日

「ブラック企業」に含まれる主観の要素


最近いろいろな方々との会話の中で、「ブラック企業」が話題になることがあります。
そこで「自分自身の昔の働き方は、今思えばブラック企業だった」というような話をされる方が、思った以上にたくさんいらっしゃいます。

話している中身を聞いていると、とにかく早朝から深夜まで、休みの日も当たり前のように働かされていたという「長時間労働」にまつわる話と、上司からのバカヤロー呼ばわりや浴びせられる暴言などの「パワハラ」に類する話の、大きく二つに分かれるようです。

内容を聞けば聞くほど、確実にNGと思われるような行為がほとんどでしたが、わりと皆さんが共通的におっしゃっていたのが、「当時はそれが当たり前と思っていて、おかしいなどと思うことはなかった」ということでした。

これには「他の人たちもみんな同じ」という周りの環境の問題、他に比較対象がないという情報の問題が大きかったようで、要は他を知らないし、社会人というのは誰でもみんなこんなものだと思っていたということでした。
言い方にはちょっと語弊がありますが、「洗脳されている」というところに近い感じがしました。

これに対して最近は、ブラック企業だと批判される企業がたくさんあります。法律違反が当たり前のようなかなりひどい会社もあるので、それは批判されても仕方がないと思いますが、一方で、「その程度でブラックと言われてしまうのか」という内容のこともあります。

ネット上の一方的な情報だけで批判されていたり、ブラック企業の噂に敏感になりすぎて、就職活動で身動きが取れなくなっていたりという話も聞きます。
これは、逆の意味で「洗脳されている」というような感じがします。

ある会社の社長さんが「うちの会社は“働きやすい会社”とまでは言えないかもしれないが、“働きがい”はある」とおっしゃっていました。
特にベンチャー企業などは、立ち上げてからのある期間は、無理してがむしゃらに仕事をしなければ立ち行かなくなってしまうことがあるのは事実です。そしてそれを支えているのは、在籍している社員が共通して持っている“やりがい”という主観です。

過重労働もサービス残業もハラスメントも、絶対にあってはなりません。
その一方で、「ブラック企業」か否かという点には、その人その人による感じ方の違い、主観の要素があることも忘れてはならないと思います。

「ブラック企業」の社名を公表する動きがあり、対象になるのは相当に悪質な企業だと思われますが、もし公表されるにしても、それがただのレッテル貼りにならないでほしいと思っています。


2014年6月13日金曜日

スタートアップの社長はちょっと意味が違うCEO


先日参加したあるフォーラムで、最近IPOを果たしたばかりの若手社長の言葉がとても印象に残りました。

パネルディスカッション形式で、IPOをして間もない経営者6人が、自社の事業紹介や今後の構想、IPOに至るまでの経緯や資本政策などを語り、話の内容は多岐に渡っていました。

その中で31歳と最も若手の社長さんがおっしゃっていたのは、「特にスタートアップの段階では、経営者はとにかく何でもやらなければならない。仕事がなければ営業して自分がドンと取って来なければならないし、人がいなければ採用なり何なりで自分が連れて来なければならない。経理も知らなければならないし総務のような事務もやらなければならない」という話で、「経営者はCEOだが、チーフ・エグゼクティブ・オフィサーではなく、何でもやらければならないチーフ・エブリシング・オフィサーだ」とおっしゃっていました。

うまい表現をするなぁと感心しながら思ったのは、特に私のように組織作りや人事ということに関わっていると、何でも組織の中で分業、分担することばかりを考えがちになります。
でも、組織のそもそもの原点は、みんなが寄ってたかっていろいろなことをやりながら、それぞれの人がお互いの様子を見て、手が届いていなかったりすきまが空いてしまっていることを埋めていくような動き方だと思います。

大まかな担当めいたものはあったとしても、やらなければならないことができていなければ、手の空いた誰かがそれを担っているはずで、そこには営業も経理も総務も人事もなく、特に全体を見なければならない経営者ほど、「エブリシング(何でも)」が求められるでしょう。

企業規模に応じた組織形態があることは、今までも十分に理解してきたつもりですが、組織の原点においては、経営者が「チーフ・エブリシング・オフィサー」でなければならないということを、あらためて意識しておく必要があると思いました。

組織が未成熟であることよりも、逆に組織がしっかり作られているがゆえに、それを盾にして「これは私の仕事ではない」などと言ってしまう人たちを、最近よく見かけるようになった気がします。
実はこちらの方が、よっぽど問題が大きいのかもしれません。


2014年6月11日水曜日

年を重ねた上での名誉欲の裏側


今の時期は様々な組織で、役員改選など運営体制の変更が行われる時期です。これはまったく別の何人もの方々から奇しくも同じように聞いたお話です。

それは、ある業界団体や親睦団体などで、一部の人が役員に居座って組織を私物化していたり、不透明な役員選出をしていたり、定年制や多選制限などの決まりを反故にしようとしたり、肩書にしがみつこうとするわりには何も仕事をしないなど、組織の運営体制を批判する内容でした。

私がうかがったお話で共通していたのは、組織を構成している人の年齢が比較的高いこと、経営者や事業主など組織を仕切る立場の人が多いことでした。

私はまだこの境地はよくわかりませんし、若くして名誉欲の塊のような人もいるので、これは個人の性格による部分は大きいとは思うものの、こう言う問題が起こる組織は、概して年齢層が高い組織、仕切りたい人がたくさんいる組織が多いことは確かなように思います。

この理由の一つとして、ある大先輩の社長さんからうかがった話から、何となくわかるようなことがありました。

この方は、まだご自身が現役の頃から退き方を考えて後継者の育成をし、引退後にやりたいことを思い描き、事前にきちんと計画も準備も行い、ご自分としては万全を期して社長業を引退されたそうです。

しかし、バラ色の生活を思いながら引退はして見たものの、実際に退いてみるとそれまでやりたくて仕方なかったはずのことにはだんだん飽きてきてしまうし、どこかで会社のことが気になって仕方がなく、ちょっと様子をうかがいに顔を出してみると、古株の社員を中心に昔のように温かく迎えてくれ、しかしもう自分が口を出す立場ではないということで、思うことがあっても何もしてやれない、そんな状況があったそうです。
「どこかで引退したことを後悔している気持ちがあるかもしれない」とおっしゃっていました。

「なぜ年を取ると名誉欲が抑えられなくなるのか・・・?」
それは、年令を重ねてある立場まで到達すると、その役職や肩書がなくなってしまうことで、自分の周りから人がいなくなってしまうのではないか、社会とのつながりが切れてしまうのではないかという不安や寂しさが若い時以上に強くなり、今の立場にしがみつこうとしてしまう、そういうことに一因があるのではないかと思います。
また、そんな気持ちの人ほど、自分の意志で辞めるのは良くても、年齢や規則と言ったことで自分の意思に関係なく退かなければならないことが我慢できないのでしょう。

人間の欲求の最終形は「名誉欲」だといわれますが、その裏には今まで通りに自分を尊重してほしいという気持ちがあって、ここにこだわりすぎる人ほど、他に自分の存在を示せる世界を持っていない、そんな感じがします。

私もうまくできるかはわかりませんが、少なくとも今から、自分なりに存在感を感じられる世界を作る努力だけはしておきたいと思っています。


2014年6月9日月曜日

「こんなの常識!」で片付けてしまう思考停止


自分の常識に照らしてみて、相手の行動がどうしても受け入れがたい時があると思います。年齢に差がある関係の間では起こりがちで、礼儀作法に関することが多いようです。

最近うかがった話ですが、ある会社の社長が、電話応対がなかなかスムーズにできない新入社員を指して、「これくらいのことは常識だと思うんだがなぁ…。」という愚痴をこぼしていたそうです。

ただ、子供の頃から自分専用の携帯電話を持っている今のような時代では、他人に電話を取り次ぐなどということを、もしかすると今までの人生で一度もしたことがないようなことも考えられます。日常生活の中では、電話応対を経験できなくなっていると考えると、もはやこれを常識というのは難しいかもしれません。

私も、特に公共マナーや食事のマナーなどでは他人の行動が気になることがありますが、これは必ずしも若いからダメなどということではありません。喫煙マナーや電車内での携帯電話のマナーなどは、どちらかといえば中高年以上と思われる人たちの方が、あまり良くないように思います。ただ、これもあくまで私が常識と考えている中で思っていることなので、他の人から見れば、また感じ方は違うのでしょう。

以前、中国で行われた卓球の世界大会で、観客のマナーについて書かれた記事を読んだことがあります。なんでも試合会場がとてもうるさいらしく、携帯の着信音はあちこちで鳴るし、みんな平気で大声で話しているし、それを注意する人もほとんどおらず、日本人の感覚からすると、これでは選手が競技に集中できないのではないかと思うほどなのだそうです。

ただその反面、フラッシュ撮影に関してはものすごく厳しく、フラッシュがどこかで少しで光ろうものなら、すぐに係員が飛んできて注意され、周りの観客からも「何をしているんだ!」という非難をされるのだそうです。

どうも、音ということに関してはかなり寛容で、それが競技の妨げになるとはあまり感じず、一方でフラッシュのような視覚的なものに関してはかなり敏感に捉えているということのようで、お国柄によっていろいろな考え方があるという内容の記事でした。

この状況は、私たちの常識とはたぶん違いますが、だからといって「常識がない!」と批判することはできないと思います。
「常識」というのは便利な言葉で、それがみんなにとって共通の価値観と思ってしまいますが、実際には決してそうではなく、仮に100人いれば100通りの常識があるはずです。

ですから「こんなの常識!」と言っているうちは、問題があったとしても何の解決にもならないと思います。
「常識」という言葉を使っての他者批判は、私はただの思考停止でしかないと思います。


2014年6月6日金曜日

「鬼軍曹」はいても「鬼大将」がいない訳


あるプロ野球チームの監督が、成績不振で休養するのだそうです。

事実上の解任ということのようですが、その理由に「昔ながらの“鬼軍曹”スタイルに選手がついて来なかった」とコメントされている記事を読みました。
鍛錬型の練習や、門限や服装ほかの規律強化などを打ち出した結果、選手との距離が広がって人心掌握ができなかったということのようです。

私はここで出てきた「鬼軍曹」という言葉が、どうも気になってしまいました。現場では一番の責任者であるはずの監督が、「鬼軍曹」と言われていることに違和感を持ったからです。「鬼軍曹という言葉はときどき聞くけど、そういえば鬼大将とは言わないな・・・」と思ったのです。

ここからは私の個人的な解釈ですが、これはやはり組織内での役割に違いがあるのだろうと思います。
直接的に現場の部下に接するような、野球でいえばコーチ、軍隊でいえば軍曹のような立場の人であれば、“鬼”と言われるような厳しさも必要なのでしょうが、組織の一番上に立つ者の場合は、ただ“鬼”ばかりではいけないのではないかと思ったのです。

例えば、技術やスキルを訓練する上では“鬼”もあり得ますが、組織マネジメントの仕事は訓練だけではありません。それぞれの部下の力量、性格、その時の体調や精神状態などの把握、どんな人材をどんな組み合わせで配置するか、今がどんな全体状況で、攻めるのか守るのか、どんな策を取るのかを、適切に判断していかなければなりません。判断が必要なことは多岐に渡ります。

その判断のために、現場の状況把握は大事な要素ですが、それには現場との適切な距離感が必要です。距離が近すぎるとなれあいに、離れすぎると情報そのものが取れなくなってしまいます。

この適切な距離感を保つというためにも、組織のトップに必要なのは、“鬼”というよりは、“人望”とか“尊敬”とか“包容力”といった、人の器と言われるような部分なのではないかと思います。組織内の立場が上になるにつれて、徐々にこういう部分を求められる比率が増えていくのではないでしょうか。

「鬼軍曹」とは言っても「鬼大将」とは言わない理由は、こんなところにあるのではないでしょうか。


2014年6月4日水曜日

雇用環境が改善すれば、「残業代ゼロ」も良い形に進むかも


「残業代ゼロ政策」の話は、いろいろな方の意見を発言や記事などで目にします。

時間に応じた賃金支払いだけでは、確かに非効率な働き方を助長している面はあると思いますし、ホワイトカラー的な仕事の成果は、必ずしも労働時間に比例する訳ではありません。
ただ、その成果が何かというと、これを定量的に捉えるのはなかなか難しいですし、今の法規制のもとでも残業代の不払いが問題になっていることを考えると、セーフティーネットの整備を合わせて考えていかなければ、問題が多すぎるという感じがします。

また、「仕事は時間でなく成果」と言いながら、ほとんどの会社では定時出社で所定時間は会社にいることを求められるなど、時間と場所の制約を受けます。働き方の柔軟性を高めることも同時に行っていかなければ、制度を考える上では片手落ちではないかと思います。

私は「労働時間と成果は必ずしも比例しない」ということは確かだと思うので、制度として検討していくことは必要だと思います。
ただ、今の議論は経営者視点が強すぎる感じがします。この制度を導入するならば、もっと関連する周辺環境の整備について、議論を深めていく必要があるのではないかと思います。
対象を年収1000万以上にする、幹部候補や高度専門人材に限る、労使の合意を必須にするなど、様々な条件案が示されていますが、結局は会社の意向に従わざるを得ない場合が多いのではないかと思います。

少し話は変わって、建設現場や介護の現場、外食産業などでは、今は大変な人手不足になっています。募集条件を引き上げてもなかなか人が集まらないようです。
また、すでに働いている人との間での逆転現象も起こり、それに対する不公平感が問題になっているという話も聞きます。

こんな人手不足解消のために、外国人労働者の活用やIT活用による業務効率化、女性やシニア世代の雇用などの方法もありますが、これだけですべてを解決することはできません。少子高齢化による人口減少で、日本人の労働力人口は徐々に減っていきますから、景気動向に左右される面はありますが、人手不足の状況は今後も徐々に進んでいく可能性があります。

こうなってくると、労働条件や労働環境の悪い企業は、どんどん人が採用できなくなっていきます。俗に言われるブラック企業は存在できなくなるでしょうし、仕事内容のわりに賃金が安い企業は、人が採れないことで経営が難しくなります。
労働時間とのつながりが強い仕事なのに残業代がないとなれば、そこで働こうという人はいなくなるでしょうし、長時間労働の企業も敬遠されるでしょう。

企業側は人集めのために、給与アップや従業員満足を向上する施策を考え、非正規労働者を囲い込むために正社員化することもあるでしょう。残業不払いなどという問題も自然に解消されていってしまうのではないでしょうか。

こうやって挙げていくと、雇用環境の改善で働く側の力が強まると、今起こっている雇用に関する問題のほとんどが、実は解決に向かっていくのではないかと思うのです。
いま行われている「残業代ゼロ」の議論も、働く人たちにとってメリットがある形でないと、導入は難しくなっていくでしょうから、もう少しバランスが取れた議論になっていくのではないかと思います。

雇用環境の改善が、結局は様々な問題を解決に向ける効果が一番大きいのではないかと思います。


2014年6月2日月曜日

「上が決めたことだから・・・」で本当に良いのか


いろいろな会社の方とお話をする中で、役員、管理職、一般社員の区別を問わず、「上が決めたことだから・・・」という言い方が出てくることが、思いのほかよくあります。
もう少し言葉を補足すると、「この決定を自分は納得できないけれど、上が決めたことだから従わざるを得ない」ということです。

私自身も組織に在籍していた時代にはそういうことがありましたし、基本的に組織というのはそういう性格のものだということも言えます。

その企業の風土によって、トップダウンとボトムアップのバランスというのはまちまちですが、「上が決めたことだから・・・」という発言が多いのは、やはりトップダウンの割合が高い企業です。

もちろんトップダウンの指示命令というのは、それがなければ組織とはいえませんから、当たり前のことではありますが、私が気になるのは、こういう企業では経営者以外のすべての人が、自分では決めようとしない、自分では考えないなど、要は思考停止のような傾向を見かける場合があることです。

これはボトムアップを認めない企業体質にも問題があるという反面、特に管理職クラスでは、このトップダウンであるということを、体よく利用しているようなところもあります。「自分が決めたことではない」といって、責任回避の言い訳にしているようなことです。
「意見を言っても変わらない」「自分が提案してもどうせ通らない」「結局決めるのは上の人」などという言葉が出てきますが、結局はすべて同じようなことです。

会社が求める理想の人材像として、「自律」というキーワードが挙がることはとても多いですが、この「自律」のために必要なのは、「自分で考えて自分で決めて、自分で実行して自分で責任を取る」というサイクルを繰り返していくことです。

ただ、トップダウンが強い企業であると、この「自分で考えて自分で決めて・・・」という部分が少ないために、「自分で実行する」というパワーが弱まり、「自分で責任を取る」という納得感が薄れます。社員が「自律」できない原因には、こんな悪循環があるのではないかと思います。

「うちの社員は自分で考えようとしない」「実行がなかなか伴わない」「リーダーシップを取ろうとしない」など、経営者からの悩みを聞くことは多いですが、中にはご本人が結果的にそのように仕向けてしまっていると思えることもあります。

社員の側でも、誰かが決めてくれることに慣れてしまっていて、それが楽だと思っていたり、経営者が納得しそうな提案しかしないような状態になっていることもあります。

「自分で考えて自分で決めて、自分で実行して自分で責任を取る」というサイクルを繰り返していくには、トップダウンとボトムアップにある程度のバランスが必要です。
もしも「上が決めたことだから・・・」という言葉が多いような印象があるならば、今一度そのバランスを見直してみる必要があると思います。