2014年6月16日月曜日

「ブラック企業」に含まれる主観の要素


最近いろいろな方々との会話の中で、「ブラック企業」が話題になることがあります。
そこで「自分自身の昔の働き方は、今思えばブラック企業だった」というような話をされる方が、思った以上にたくさんいらっしゃいます。

話している中身を聞いていると、とにかく早朝から深夜まで、休みの日も当たり前のように働かされていたという「長時間労働」にまつわる話と、上司からのバカヤロー呼ばわりや浴びせられる暴言などの「パワハラ」に類する話の、大きく二つに分かれるようです。

内容を聞けば聞くほど、確実にNGと思われるような行為がほとんどでしたが、わりと皆さんが共通的におっしゃっていたのが、「当時はそれが当たり前と思っていて、おかしいなどと思うことはなかった」ということでした。

これには「他の人たちもみんな同じ」という周りの環境の問題、他に比較対象がないという情報の問題が大きかったようで、要は他を知らないし、社会人というのは誰でもみんなこんなものだと思っていたということでした。
言い方にはちょっと語弊がありますが、「洗脳されている」というところに近い感じがしました。

これに対して最近は、ブラック企業だと批判される企業がたくさんあります。法律違反が当たり前のようなかなりひどい会社もあるので、それは批判されても仕方がないと思いますが、一方で、「その程度でブラックと言われてしまうのか」という内容のこともあります。

ネット上の一方的な情報だけで批判されていたり、ブラック企業の噂に敏感になりすぎて、就職活動で身動きが取れなくなっていたりという話も聞きます。
これは、逆の意味で「洗脳されている」というような感じがします。

ある会社の社長さんが「うちの会社は“働きやすい会社”とまでは言えないかもしれないが、“働きがい”はある」とおっしゃっていました。
特にベンチャー企業などは、立ち上げてからのある期間は、無理してがむしゃらに仕事をしなければ立ち行かなくなってしまうことがあるのは事実です。そしてそれを支えているのは、在籍している社員が共通して持っている“やりがい”という主観です。

過重労働もサービス残業もハラスメントも、絶対にあってはなりません。
その一方で、「ブラック企業」か否かという点には、その人その人による感じ方の違い、主観の要素があることも忘れてはならないと思います。

「ブラック企業」の社名を公表する動きがあり、対象になるのは相当に悪質な企業だと思われますが、もし公表されるにしても、それがただのレッテル貼りにならないでほしいと思っています。


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