2013年9月17日火曜日

エレベーターの中でつい観察してしまうこと


どこかに出かければ、一日一度くらいはエレベーターに乗る機会があると思います。オフィスビルのエレベーターに乗る時ではあまり感じなかったことですが、独立してからここ数年、地元の駅ビルなど、より多くの人が利用するエレベーターに頻繁に乗るようになってから感じていることです。

私は自分が入り口近くに乗った時は、最後まで「開」ボタンを押して他の人が降りるのを待つようにしています。そうすると会釈をしたり、「有難うございます」とお礼を言ってくれる方がいらっしゃいます。もちろん知らんふりの人は大勢います。

私と同じように、ボタンを押して最後まで待っていてくれる方もいらっしゃいます。私はお礼を言うようにしていますが、知らん顔の人も当然います。入口に立っても特に何もせず、一番先に降りてしまう人もいます。

何となく観察しているのですが、外見だけでは傾向がありません。大人か子供か、男か女か、若いか年寄りかなどはほとんど関係がありません。茶髪の高校生でも、優しそうお姉さんでも、スーツ姿の紳士も、作業着姿のちょっと強面の人も、やる人はやるし、やらない人はやりません。

私も観察していると言いながら、やっぱりどこかで先入観を持ってみてしまっています。「きっとこの人は知らんふりなんだろうな・・・」などと思っていたりして、それが当たったり見込み違いだったりしています。「人を見た目で判断してはいけないなぁ」と反省することも多いのですが、そんな中で気づいた事があります。それは、“気遣いの行動”があるかないかということには、その人の“心の余裕”の有無に違いがあるのではないかということです。

私が“心の余裕”をどこで感じているかといえば、単純に「周りを見ている視線があるかないか」ということです。聞いている音楽に夢中、手にしているスマホに夢中、急いでいる、他のことを考えている、その他余裕がないと思われるような人は、周囲に向ける視線がほとんどありません。それに対して何か行動する人は、エレベーターに乗る前から何となく周囲を見ています。待っている人にお年寄りが多いから自分が先に乗ってしまおうとか、入り口に立ったら無条件にボタン操作をするとか、たぶん何らかの状況判断をしているように思います。

最近電車内の化粧や飲食について、批判的な話を聞きますが、これはプライベート空間の捉え方が変わってきていて「周りに他人がいても見えていない」「知り合いがいなければ関係ない」と思っていることが一因という話を聞いたことがあります。私はエレベーターに関しても、実は根っこは同じようなことを感じます。

自分の行動を他人に左右されないということは、場面によってはすばらしいと思いますが、やっぱり日本というお国柄で、みんなとうまく過ごしていくためには、「周りを見る視線」も必要だと思います。

個人主義が行き過ぎると、自分自身が結局はイライラする世の中になってしまうような、そんな危惧を感じています。


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