最近見たテレビ番組で、コロナのせいで大会やイベント、発表の場を失ったまま部活動を終えざるを得なくなってしまった学生たちに、その舞台を与えようという企画をやっていました。当事者の学生たちの話を聞いていて、実は想像以上に大勢の人が最後の集大成の機会を失って、不完全燃焼のさびしい思いのままであきらめていることを知りました。
このテレビの企画が「みんなで集まるのは最後」と言っている学校もあり、当事者でない自分でも、とても複雑な気持ちになりました。
みんなで集まって、交流して、何かを分かち合って、同じ場所で一緒に盛り上がってという、今まではごく普通だった「リアル」な社会活動ができないことが、いかに不自由で悲しいことなのかとあらためて感じます。
企業の働き方は、在宅勤務をはじめとしたリモートワークが、ごく一般的なことになりました。業種や地域によって差はありますが、ほとんど出社することなく家で仕事をしているという人たちがたくさんいます。私自身もミーティングや面談がリモートになったり、それが終日続いたりして、家で仕事をする時間がかなり増えました。今までも在宅での仕事やモバイルワークの時間は、普通の会社員の人よりは多かったはずですが、さらにその比率が増して、反対に外出することは大きく減りました。
コロナ禍の初めの頃は、いろいろわからず怖さもあったので、ほとんど家で過ごしていましたが、仕事は意外に「リモート」でできてしまうことがわかりました。移動にかかる時間や手間がないので、ずいぶん効率的だと感じて、どうしても対面が必要な時以外はこれで十分だと思ったものです。
それからしばらく時間が経過した今、「リモート」と「リアル」の善し悪しに関する感じ方は、ちょっとずつ変わってきています。
まず、「やっぱり“リアル”でないとダメ」と思うことの比率が増えてきました。もともと「リモート」でできることなら、全部それでいいと思っていたタイプですが、「現地に行って見てみる」「直接会って話してみる」ということがどうしても必要だという場面が、それまで思っていたよりも多いと考えるようになりました。
もう一つは、移動しないという効率の良さが、別の弊害を生み出すことに気づき始めました。例えば活動が減ることでの運動不足や、座ってばかりいることでの腰痛といった健康上のことや、代わり映えしない自宅で、一人で黙って会話がなく仕事をし続ける閉塞感や気分転換の難しさなどです。
そんなことを総合して、本当に全体の生産性は上がっているのかという疑問も浮かび始めました。
「リモートでできるならそれで十分」と思っていたものが、ずっと「リモート」中心の環境が続いたことで、「やっぱりリアルでないとダメだ」と思うことが徐々に増えてきました。
電車に乗ったり、風景を眺めたり、知らない人でも他人の様子を見ていたり、そんな些細な無駄が、結構気分転換になっていたのだと気づきました。
つい先日、世界タイトルを防衛したボクシングの井上尚弥選手は、私の地元近くの出身ですが、あえて所属ジムの近くには住まず、生まれ育った地元から車で40分ほどかけて毎日通っているそうです。行きの時間でテンションを上げて集中を高めてトレーニングに臨み、帰りの時間で徐々にクールダウンしてリラックスしていくそうで、そのためには40分くらいの時間がちょうどよいそうです。
コロナ禍によって、本当のムダと、一見ムダだが実は意味があることの区別も明らかになってきたように思います。
私は「リアル」が必要だと思う比率が、今までより少しずつ高まってきています。
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