失敗というのは、なければないに越したことはなく、誰でも避けたいものです。ただ、どうしても起こってしまう、避けたくても避けられないものでもあります。
失敗には、大きく分けて二通りのものがあります。
一つ目は、ケアレスミスや不注意と言われることの結果による失敗です。仕事や生活の中での抜け、漏れ、忘れ物といったことがあたります。
ある会社では、会社の入館証であるICカードをなくすと、始末書を書かなくてはならないそうです。そこまでではなくても、必ず何らかの叱責を受け、「以後気を付けます」などと謝罪することになるでしょう。こういう処分をする会社は多いですが、始末書を書いたり叱責を受けたりしたからと言って、紛失のようなケアレスミスや不注意がすべて防げるわけではありません。本人が反省して、少し注意力が増す程度の効果はあるかもしれませんが、しょせんは見せしめでしかありません。
こういうことは、それぞれの人が少なくとも何らかの注意をしていて、そういう中でも起こってしまいます。
もしケアレスミスや不注意による失敗を100%なくそうとすれば、人間の注意力に依存しないように仕組みを変えるしか方法はありません。例えば、入館証を生体認証に変えれば、カード自体が不要になって紛失という失敗自体がなくなります。確認漏れや転記ミスは、その作業自体を自動化、機械化してなくしてしまえば良いことです。人間のミスは絶対に無くすことはできないので、それを防ぐ仕組みがないままで個人を責めるのは、少し理不尽なことです。
二つ目は、チャレンジした結果としての失敗です。そもそも、失敗というのは自分の能力の限界を超えようとしたときに起こりやすいものだとされます。まだ経験していないレベルのことにチャレンジしたようなときです。
ここでの失敗の理由を見極めるときに、注意しなければならないことがいくつかあります。
まず、その失敗が能力の出し惜しみの結果として起こったものだったとしたら、それは失敗ではなく「怠慢」になります。起こってしまった好ましくない事象が、能力を最大限に発揮した上での「失敗」なのか、それとも能力があるのに使わなかった「怠慢」の結果なのかは、しっかり切り分けなければ、以後の対策を見誤る恐れがあります。
もう一つ、「これくらいできて当たり前」ということを、誰かが「失敗」したとします。しかし、その「できて当たり前」のことが、その人には未経験のことだったとしたら、本人の能力レベルからすればチャレンジであり、失敗の可能性は当然高くなります。そこでの失敗を「できて当たり前」だからとの理由でその人の責任にしてしまうのは、失敗の本質を見誤っています。本人の能力レベルを考慮せず、「できて当たり前」といって仕事を与えた上司にも責任があります。
人材育成の過程では、どこかで必ずその人の限界を超えるチャレンジが必要になります。チャレンジに失敗はつきものであり、それが起こることを予想してサポートしなければ、成長につながる経験を積むことはできません。上司による部下の能力レベルの見極めと、それに応じた仕事の与え方は、実は失敗ととても密接に結びついています。チャレンジを避ければ失敗は減りますが、新たな経験を積む機会がなくなり、人材の成長は望めません。
チャレンジによる「失敗」は、ただ避けようとするのではなく、それが起こるという前提で、その理由と内容をしっかり見ておく必要があります。
「失敗」の理由と中身には、いろいろなことがあります。
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