2016年2月10日水曜日

本気かどうかがわかるのは自分だけ



ニートや引きこもりの若者の就労支援をしている厚生労働省の事業の広報ポスターに、現場関係者などから批判が出ているとの記事を目にしました。
「キミはまだ本気出してないだけ」との応援メッセージが、職に就けない責任を個人に押しつける印象を与えているからだそうです。

厚労省の担当者た」「“本気”には“本当の気持ち”という意味や、どんな思いでも打ち明けてほしいという願いを込めた」と説明しているそうですが、ニートやひきこもりには病気やけがを抱えていたり、家庭環境や障害などで人間関係をうまく作れないような人もいるため、現場のスタッフから、「上から目線だ」「無職の若者すべてが本気を出していないように誤解される」との指摘が何件か寄せられているそうです。

私は「本気になればきっと解決できる」と応援したい気持ちも、「みんなが本気を出していない訳ではない」と批判する気持ちも、どちらもわかる気がします。ただ、どちらにしても、この「本気」という言葉を使うのは、結構注意が必要なことではないかと思っています。「その人が本気かどうかは、他人から見てもなかなかわからないから」です。

このところいくつかの会社で「仕事をやってもやらなくても、どうせ大して変わらない」と話している社員を何人か見かけました。だから「本気なんか出してもしょうがない」のだそうです。

この話でも同じく、「本気かどうかは、他人から見てもわからない」ということがありますが、逆説的に見れば、「本気かどうかは、本人ならわかる」となります。
では、本当に本人がわかっているのかと言えば、これは両面あるように思います。
両面あるというのは、自分の本気のレベルがわからなくて「こんなもの」と思っているのか、自分の本気のレベルを知っていて、「それでは到底無理」と悟っているのか、そのどちらの場合も考えられて、それも本人にしかわからないということです。

私がいろいろな人を見てきた経験上で言えば、「本気になるのはムダ」と言っている人が本気になっていると思われる姿を見ることは、その人の過去にさかのぼってもほとんどありません。
本当の本気になって、できることをできるだけやって、それでも報われないことを知って、その結果として「本気なんか出してもしょうがない」と言っている人は、たぶんほとんどいません。やろうとしないこと、やる気がないこと、できないことの言い訳であることが圧倒的に多いと思います。

でも、これもあくまで他人が見ていて思うだけのことであって、その人が本気かどうかはやっぱり本人しかわかりません。「本気になろう」と励ますのも、「本気を出せ」と叱責するのも、本気という言葉を使うのはやはり難しいことだと思います。
本気になるかどうかは、結局は本人次第です。でも本気になれて本気で取り組むことができるのだとしたら、それが全くムダであることは絶対にないと私は思います。


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