2018年7月27日金曜日

「普通」という基準のこわさ、危うさ

「普通は気づくはず」
「普通なら出来るでしょう」
「それくらいは普通だろう」
レベル、能力、さじ加減、程度といったものを、「普通は・・・」という言葉で表現することが結構あると思います。私もつい言ってしまうことがあります。
しかし、この「普通」には注意しなければなりません。何かの尺度を示す上での具体性は、何一つないからです。「普通」と言っている本人の主観でしかありません。

「普通」の対義語を調べると、私が見た辞典では4つ挙げられていて、「奇抜」「希少」「異常」「特別」とありました。他にも「特殊」「特異」「奇異」があり、多いことにちょっと驚きましたが、これらをひとまとめにして、「普通じゃないもの」といってしまうのが、私は一番しっくりきます。

「普通」という言葉の意味は、“特に変わっていないこと”“ごくありふれたものであること”“広く通用する状態のこと”などとありますが、この「普通」と「普通じゃないもの」の境目は決して明確ではありません。グラデーションのようにつながっていて、個人個人が自分の感じ方によって、それぞれが線引きをしています。
法違反すれすれでも「それが普通」という人もいますし、もっと厳しいモラルに基づく「普通」もあります。その良し悪しはともかく、「普通」は人それぞれで違っていて、物事を判断する共通基準にはならないのです。

ここで起こる問題は、「普通は・・・」という言葉で、相手を自分の基準に合わせさせようとすることです。いかにも正論に聞こえる「普通」という言い方での強制です。
特にリーダーの立場にいる人が、メンバーに対して「普通」という言葉を使い始めると、いろいろ危ないことが起こり始めます。最も多いのは、自分の「普通」の合致しない人を認めずに、排除し始めることです。メンバーは嫌々でもリーダーの言う「普通」に合わせるか、排除されることを受け入れるかの二択しかなくなります。これはパワハラと言われても仕方がありません。

最近企業の現場でよく聞くのは、礼儀やマナーに関する「普通」の話です。
「普通はお礼を言いに来るだろう」「普通は挨拶するだろう」「普通は遠慮するだろう」などなど。
私が聞いていると、そうだなと思うことも、それは要求し過ぎと思うことも、両方ありますが、これもあくまで私の「普通」であって、相手にとってどうかはわかりません。

日本人はどうも「普通」という言葉が好きですが、会社のように様々な価値観を持った人が集う場所では、ただ「普通は・・・」で終わらせるのでなく、その時の判断基準をしっかり言語化して共有する必要があります。
例えば、「お礼や挨拶がないとマイナスの感情を強く持つ人がいること」「誰がそういう感情を持つかはわからないので、ビジネスの場では一番厳しい基準に合わせて行動するのが得策」と説明して共有すれば、それがそのチームの「普通」になります。

最近ある国会議員の雑誌投稿に、差別的な内容があったとして取り上げられていましたが、その論拠として語られていた言葉は、「普通は・・・」「一般的には・・・」がほとんどでした。
個人の主観に基づく話を、「普通は・・・」という言葉で、いかにも大多数の人の共通認識のように示すのは、リーダーが言い出す「普通」から始まる危うさと共通しています。

「普通」というのは、基準のようで基準ではありません。価値観が多様化した昨今では、安易に「普通は・・・」で処理せず、その中身を説明、確認、共有していくことが必要になっています。


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