2018年8月29日水曜日

「パワハラ“的な”研修」には価値がないと思う理由


ある新聞に、「パワハラ研修」に関する記事がありました。
一般的に「パワハラ研修」と言えば、「パワハラ“防止”研修」を指していることが多く、「パワハラ研修」と検索すれば、こちらの話ばかりが出てきますが、この記事で言っているのは、「パワハラ的で過酷な社員研修」のことです。
この記事によれば、その特徴は「肉体的負荷をかける」「自己否定させて価値観を破壊する」「外部と遮断する」の3つがあるとのことです。

私の新入社員時代はずいぶん前になりますが、その頃でもこういう研修は確かに存在していました。ただし、私自身は「パワハラ“的な”研修」を受けた経験はありません。その理由は、単純に嫌で無駄で役に立つとは思っていなかったからで、そういう研修をやりそうな会社は避けていたからです。

今は、どちらかといえば講師の側に立つ機会の方が多くなりましたが、それでも「パワハラ“的な”研修」が、少なくとも企業研修の範疇においては、無駄で無意味だと思う気持ちは変わりません。
しかし、そんな私の周りでも、「パワハラ的」としか思えない研修を、未だにやっている会社がありますし、そういう研修プログラムを提供している会社もあります。

そんな会社を見ていると、経営者の性格や組織風土に共通点があるように見えます。
典型的な例でいえば、社長は創業者かオーナー、年令高めの男性がほとんどで、会社では圧倒的に男性比率が高く、販売、サービス、ほか営業的な仕事が中心です。起業間もないことはほぼなく、比較的歴史があって、伝統的にその手の研修をやり続けています。

内容は多岐に渡りますが、駅前で大声で怒鳴り続けさせるような、パワハラ的に作り込まれた研修プログラムの場合もありますし、座禅や滝行といったものも聞いたことがあります。
何人かの社長に、それをやる目的を聞いたことがありますが、皆さん異口同音に、「非日常での不快でつらい体験が、その後に起こり得る仕事上の逆境に活きる」との考えを語っていました。

私は、これらが人生経験としてまったく無意味とは思いませんが、こと企業研修でおこなうことについては、理論的な背景に照らしても、ほとんど意味がないと思っています。

例えば、「学習の機会」を考えるガイドラインとして、702010フレームワーク」というものがあります。
これは、
・学習の70%は、「実際の仕事経験」によって起こる
・学習の20%は、「他者との社会的なかかわり」によって起こる
・学習の10%は、「公的な学習機会」によって起こる
というものですが、ここでは10%しかない「公的な学習機会」(企業であれば研修やOFFJTなど)を中心に考えるのではなく、「実際の仕事経験(企業であればOJT)」と「他者との社会的なかかわり(上司、先輩後輩、取引先ほか周囲との関係)」を含めた、統合的でOJTとして継続可能な枠組みで、学習機会を考える必要があるとされています。
「パワハラ“的な”研修」は、実務を含めたOJTにつながりませんから、学習効果は非常に薄いことになります。

また、ドイツの心理学者エビングハウスの実験による、人間の記憶の忘却曲線というものがあります。
それによれば、 人間の記憶は「20分後には58%」「1時間後には44%」「1日後には26%」「1週間後には23%」「1か月後には21%」しか保持していないそうです。
記憶の定着には反復が重要とのことですが、「パワハラ“的な”研修」は反復することができません。

さらに、一流アスリートは自らに厳しいトレーニングを課しますが、それは体力をつけ、技術を高め、成績につなげるには、自身の限界に極めて近い、ギリギリの厳しいものになるということで、決して厳しい体験をすること自体が目的ではありません。
その厳しい経験が、本番で最後のひと踏ん張りのよりどころになることはあるでしょうが、すべてのトレーニングは本番に直結するOJTのようなものだといえます。

私はこういった背景から、ただ厳しい体験を目的とした「パワハラ“的な”研修」には意味がないと思っています。
ただの異文化体験、精神修養としてはありなのかもしれませんが、それはあくまで個人の趣味や嗜好として取り組めばよいことであり、少なくとも企業が社員の能力向上のためにおこなうものではありません。

ここまでの話に反論する人はきっといらっしゃるでしょうが、そもそも企業研修にもかかわらず「パワハラ的」と言われてしまう段階で、もうすでに許容されない世の中になっているということを知るべきだと思います。

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