2019年4月1日月曜日

誰でも陥る「人物評価の固定観念」


ある人から「とても立派な素晴らしい社長がいるから紹介したい」といわれました。業績を上げて伸びている会社の社長で、いろいろな団体で役員を務められているそうです。学歴や家柄のことも言っていました。
でも、私はそれを聞いて、本当に立派で素晴らしいかどうかは会ってお話ししてみなければわからないと思いました。その社長の人間性の話は全くなく、ただビジネス的に成功していて経歴が良いというだけだったからです。
経歴の良さや成功していることは確かに素晴らしいですが、私が考える「立派で素晴らしい人」の尺度では、もっと人柄や人間性の優先順位が高いので、それだけで高い人物評価はできません。

また、ずいぶん昔の話になりますが、こんなこともありました。
私がまだ新卒で会社に入社して数年目の頃、ある飲食店で会った面識のない人に、自社の社長に対する話し方が「失礼で態度が悪い」と小言を言われました。「社長に対する言葉づかいではない」などと言います。その人はお店の常連で、私たちの社長とは多少話したことがあったようです

ただ、私が当時在籍していた会社は、上下関係がフラットな雰囲気の会社でした。確かに上司を上司と思わないような失礼なことはありましたが、「さん付け運動」などしなくても、上司部下がお互いに「さん付け」で呼び合うような社風です。
お互いがそんな日常会話の延長でやり取りしていたところを、他人が急に割り込んできて一方的に小言を言い、私も若気の至りで「見ず知らずの人に言われる筋合いはない」「大きなお世話だ」と言い返した記憶があります。
いま同じことがあったとして、相手への対応の仕方は違ったとしても、心で思うことはたぶん当時と変わりません。当人同士の肩書や社会的な地位は大きく違っても、関係性はそれだけに左右されるものではありません。

このどちらの話も、私は「人物評価の固定観念」によるものだと思っています。
その一つは“役職や肩書による固定観念”で、「政治家は偉い」「社長だから優れている」といったものですが、そういう人が必ずしも人格が優れていて、能力が高いとは限りません。
もう一つは“評価基準による固定観念”で、「成功しているから」「実績があるから」といったものですが、これも何を取り上げるかによって捉え方は変わります。
例えば、性格や人格を基準として優先すれば、別に成功者であることや実績は関係なく、人によって捉え方が違うでしょう。優しく謙虚な人を素晴らしいと思う人もいれば、強くたくましい人を評価する見方もあります。

こういう話で一番多いのは、企業の採用面接でのことです。ほとんどの場合は実際の仕事ぶりを見る前段階で、採用の合否を決めなければなりませんから、様々な属性データをもとに人物評価をおこないます。そんな中には、数々の固定観念によるものがあります。
「この学歴なら優秀だ」「成績が良いから頭も良い」「この企業で部長を務めたなら仕事ができる」などは、当たっている場合もありますし、そうでない場合もありますが、有名企業や有名大学の出身であることを評価されて入社した人が、期待を裏切る例は、本当に数えきれないほどあります。

最近目にした事で、新聞報道の職業「無職」は確実に印象が悪いですが、この「無職」の中には様々な人が混在しています。一生懸命仕事を探している人も、ずっと働いてきて一時的に休んでいる人も、何らかの事情で働けない人もいるはずですが、「無職」の一言で区切られてしまうと、悪い印象の固定観念でしか見られなくなってしまいます。

こんな人物評価の固定観念は、ほぼすべての人に何らかの経験があるはずです。もちろん私自身もそうです。それが正しいこともありますが、正しくないことはそれ以上に数多くあります。
私は、できるだけその人の本質を知り、属性だけにとらわれない人物評価が、少しでもできるように努めていきたいと思っています。


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