「自己肯定感」という言葉があります。
調べてみると、自己価値に関する感覚で、自分が自分についてどう考え、どう感じているかによって決まる感覚だといいます。
人と比べて優れているかどうかで自分を評価するのではなく、ありのままの自分を認め受け入れて、自分を認める感覚を持てると、他者や周りも尊重できるようになるそうです。自分を認められない人が他人に優しくできないのは、確かにその通りだと思います。
その反面、自分の過去の経験として肯定的にとらえていることは、その後の環境や様々な条件が変わり、すでに通用しづらくなったことでも、それを否定するのは難しいことです。
典型的なのは、例えば「体罰」ですが、やられている当時は嫌でつらくて仕方がなかったが、後で考えると、それが自分の糧になったなどと言います。
理不尽な上下関係、理論的に正しいのかわからない過酷なトレーニングなども、やった本人はつらかったと言いながら、いま思えば「実になった」「役に立った」「ためになった」などと言います。「耐える経験」「意に反することをやらなければいけない経験」が大事で、得られたものが大きかったとも言います。
今となっては他人に強制まではしなくても、「そんな経験も必要」「できるなら経験した方が良い」とアドバイスしたりします。
私も同じことがたくさんあります。例えば「飲みにケーション」は肯定派で、そのおかげで仲良くなった人が大勢いて、聞けないような話がたくさん聞けて、交流が広がったと思っています。
最近はそれを嫌う若手社員が増えているといいますが、もし何か聞かれれば、「あまり嫌わずに参加してみればいい」「得られるものがあるはず」とアドバイスするでしょう。
ただ、そんな「飲みにケーション」について、行かない人の声という記事を読んで、いろいろと考えさせられました。
その記事の中にあった飲み会に行かない理由は、こんなことでした。
「会社で何時間も一緒にいるのだから、その中でコミュニケーションをとればいい」
「お酒が入らないと話せないではなく、信頼関係があればお酒に頼らず話せるはず」
「他にもっと時間を使いたいことがある。時間の無駄」
「行っても話が的外れ、高圧的、自慢話などで面白くない」
そう言われれば、どれも一概に否定はできません。
私が経験した「飲みにケーション」のメリットも、別に飲み会でなくても経験できる方法はあるでしょう。お酒が苦手な人も、酔っ払いが苦手な人も、居酒屋が不経済だと思う人も、いろいろいるのは当然です。
体罰などの話でも同じで、「必要なときもある」という人は、まだまだ大勢いますが、違う方法で同じかそれ以上の効果を得られる方法はあるでしょう。
アスリートの世界などは、過去のトレーニング理論の見直しが顕著におこなわれていて、ちょっと前に当たり前だったトレーニング方法でも、今は「非効率」「効果がない」「故障を招く」などと否定されているものがたくさんあります。
トレーニング理論の進歩で選手寿命が延びる競技が増えていますが、その一方、特に子供たちに対して、今でもスパルタ的な練習を課している指導者の問題も聞きます。たぶんその指導者が経験してきた練習方法はそういうで、それ以降アップデートする機会がなかったのでしょう。
自分たちは、先人や過去の経験から学ぶことが大切ですが、それが逆に伝える立場、教える立場になったとき、自分の過去の狭い経験を押しつけていないでしょうか。
自分が過去に一生懸命やってきたことほど、そのやり方を客観的に評価するのは難しいことです。ただ、それを押しつけていないかということには注意しなければなりません。
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