2019年12月19日木曜日

「人が人を評価すること」はどこまで必要か


どこの会社でも当たり前に行われている評価制度ですが、最近は本当にこれの意味はあるのかという疑問の声が多々あります。
その結果として、成果主義の見直しがあったり、評価制度そのものをやめたりする企業も出てきています。大きな動きは、外資系企業をはじめとした「ノーレイティング」といったものです。序列付けの年次評価をやめて、その労力をもっと個人面談などに振り向けて、一人一人の能力伸長につなげようという主旨です。

そもそもなぜ評価制度が必要なのかを考えると、「自分の身の程を知るため」と、「給料を決めるため」です。「身の程を知る」というのは、他人からの評価で自分の能力を客観視して、そこから課題を見つけたり、目標を立てたりするという意味です。評価制度の中では「フィードバック」などと言われるものです。

評価制度で常に課題になるのは、「評価基準」についてです。
評価には評価する者による個人差があり、100%同じ尺度での公正な評価というものはあり得ません。これはどんなに基準を設けても、評価者がどんなに熟練しても、差は絶対にあります。

フィギュアスケートのプロフェッショナルな審判であっても、それがまったく同じ演技を見た結果であっても、採点には差が出ます。「こういう演技をします」とわかっていても、差は出てしまうのです。
差が出ることが前提にあるので、複数の審判で採点したり、最高点と最低点を除外したりして、より公正になるように調整する仕組みがあります。必ず試合の事前と事後にミーティングをして、常に判定の目線合わせをしていると聞いたこともあります。

一方で、会社の評価制度は、それぞれの評価者から、それなりのきちんとした評価があがってくることを前提にしています。二次評価のように調整する仕組みはありますが、もともとの評価者は一人なので、極端なずれがあると修正することが難しくなります。
私はまだ見たことがありませんが、気に入らない部下を上司が徹底的に低く評価するなんていうことは、やろうとすればできてしまいます。「そんな評価ではないだろう」と調整しようとしても、評価した上司が強く主張し続けたとしたら、それを覆すことはかなり難しいです。調整する二次評価者は、その部下の仕事ぶりを、直接観察していないことがほとんどだからです。


私が思うのは、多くの人が割と簡単に「評価する」と言いますが、人が人を評価するということは、実はかなりの危うさを含んでいるということです。相当な真剣さでやらなければ、おかしなことが起こる可能性があります。
どんなに厳密な基準を用意しても、必ず主観による格差が出ます。はっきり言って公正な評価は無理なのです。

ある記事で最近見た言葉で、「人が人に値段をつける仕組みは絶対に不満が出る」「人を支配で動かせる時代は終わった」というものがありました。「会社の民主化」という動きだそうです。

確かに最近の給与の決め方の中には、自分の言い値を周りがOKすれば良いとか、転職者の市場価格を基準に決めるとか、ちょっと違う考え方が出てきています。
評価制度に「給料を決める」という役割がなくなったとすると、あとに残るのは「身の程を知る」ということですが、これは別に評価表で点数にしなくてもできることです。フィードバック面談を重視するような流れも、こんなところから生まれています。

その方向性はともかく、これから会社の人事評価の仕組みは間違いなく変わっていきます。
少なくとも、「人が人を評価することの難しさ」は十分理解しておかなければなりません。

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