2016年5月16日月曜日

「自分の当たり前」が相手には新鮮で斬新なことがある



あるウェブコラムに、日本流のおもてなしは、必ずしも外国人観光客に好評ではないという記事がありました。
日本で提供されているツアーには、観光地をめぐってお土産を買うというパターンがあまりにも多く、「体験が少ない」のだそうです。
日本人は、その場所へ行ったという事実が重要なので、写真を撮ってお土産を買えばだいたい満足しますが、外国人はそこでしかできない体験がしたいのだそうです。

この記事では「わさびのすりおろし体験」への反応が紹介されていて、海外でも寿司などを通じてわさびが食べられるようになっているものの、ほとんどが粉わさびなので、本わさびの味はもちろん、わさびの原型を見たこともなく、おろして使うことも知らない人が大半なのだそうです。

そういう人たちにとって、わさびを実際におろして味わう体験は、びっくりするほど盛り上がるそうです。鮫皮のおろし金は見たことがないし、おろし方も知りませんから、そういうことを一つ一つ解説しながら体験することで、みんなが驚き興味津々だそうです。

日本人にとっては、そこまでめずらしいことでも面白いことでもない、自分たちにとってはわりと当たり前のことなので、こういうことを体験させようというような発想は、なかなか出てこないのだということです。

「相手の気持ちになって考える」といいますが、特に自分にとって当たり前のことを、思い込みを持たずに相手に合わせるということは、実際にはなかなか難しいことです。

同じようなことは、私のコンサルティングの仕事でもときどきあって、例えば、私としてはすでに一般的に普及した知識のつもりで話をしていると、それは初めて聞いた新鮮な話題だという反応をされたり、反対に、この仕事をしていればこれくらいは知っているだろうと思っていたことが、実は全然通じていなかったりということがあります。
先方からの、自分たちの業界では常識レベルの話を、私があまり理解できなかったということもあります。

これはある大学の先生から聞いたことですが、最近は入学してくる学生の学力レベルのバラつきが大きくなっていて、「これくらいは知っているだろう」という前提で授業を進めてしまうことはできないとおっしゃっていましたが、これも同じようなことかもしれません。

こういうことを避ける方法を考えてみましたが、結局思いついたことは一つだけで、プロ、専門家、ベテラン、上級者など、そのテーマにより精通している側の人が、相手に予見を持たずにコミュニケーションをとることに尽きるのではないかということです。

自分が一般的だと思っていることでも、情報提供してみると、相手にとっては意外に有用な情報だったことが多々ありますし、相手にとって常識的なことであっても、自分が理解できなければ相手に聞くしかありません。

日本は、伝える努力やスキルがなくても、お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう「高コンテクストな環境」だと言われ、俗にいう「あうんの呼吸」に依存しがちです。

しかし、ダイバーシティやグローバル化が言われる中では、コンテクストに依存せずに、きちんと言語でコミュニケーションを図ることが、より大事になっていくのだと思います。世代間の違いなどでも同じことでしょう。
外国人が喜ぶ本当の「おもてなし」も、こんなことから生まれてくるのではないでしょうか。


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