東大名誉教授で解剖学者の養老孟司さんの寄稿文で、「人生は本来 不要不急」というものがありました。
ご自身の大学院での研究や、解剖学という自分の専門分野など、「俺の仕事って結局はいらないのではないか」と、常に不要不急を感じていたといいます。ただ、それは世間からの要求と自分がやりたいこととの関係性の問題であり、あまり一致点がないと気づいたときに大学を辞めたそうです。
また、ヒトゲノムの解析が進み、その中で明瞭な機能がわかっている部分は非常に少なく、それはDNAのほとんどが「不要不急」ということになり、生物学的には「要、急」であることがむしろ例外ではないのか、人生は本来、不要不急なのではないかと考えてしまったとあります。
私も、実は「不要不急」だったことを、勝手に「要や急である」と思い込んでいたのではないかと言われると、思い当たることはたくさんあります。コロナの問題は決してうれしいことではありませんが、今までの自分の活動を見直すきっかけになったことは確かです。
もう一つ、酒場放浪記で有名な吉田類さんは、「不要不急」についてこんなことを書いています。
今は外出できないので「家飲み」だそうですが、独り酒だと量が増え、それに比べて酒場でわいわい飲むと、やはり会話があるおかげで量も適当におさまるそうです。
最近、ウェブ飲み会をやったそうで、カメラ越しでも顔を見れば安心できて、それは行きつけの酒場で会うのと同じ安心で、酒を通じて存在を確認し合っているのだろうと言っています。
今は「不要不急」の外出を控えているが、酒場通いは「不要」ではなく行きたいに決まっていて、でも今は「不急」だと思って我慢しているのだと締めくくられていました。
今は「不要不急」と一くくりで言ってしまっていますが、私はこのお話から、「不要」と「不急」は別のものだとあらためて気づかされました。
そんなところで思ったのが、有名な「七つの習慣」に出てくる「重要性と緊急性」の話に似ているということでした。「必要か不要か」は「重要性」のこと、「至急か不急か」は「緊急性」のことです。
コロナの問題を契機に、今まで「必要」と思っていたことが、実は「不要」なことが数多くあるのが明らかになりました。「至急」だと煽られていたことが、実は結構「不急」でよいものもあるのがわかりました。
そして今は、多くの人が「必要」だけど「不急」のことを辛抱、我慢している状態だということです。
「不要」なことは、今後も当分やる必要がありませんが、「不急」というのは、時間の経過とともに事情が変わってきます。「しばらくは大丈夫」と思っていても、やっぱり髪の毛は伸びるしネイルは剥がれるし、気分転換も難しくなってきます。
最も大きな経済の問題も、初めは「少しくらいなら休んでも大丈夫」でしたが、もういよいよ限界が近いです。すでに限界を超えた人もいます。「不急」がどんどん「急」を要するようになっています。
「重要」で「緊急」なことは、最優先ですぐにやらなければなりません。
いつまでも「不要不急」とひとくくりのキーワードで考えるのは、優先順位の間違いを生みます。それはあまり適切ではなく、見方を変えていかなければなりません。
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