2019年5月16日木曜日

刷り込み、思い込みにとらわれた「裁量労働制」の怖さ


ある建築設計事務所に新卒で採用された女性が、入社早々から専門業務型の裁量労働制を適用されて以降の3年間、長時間労働が原因で適応障害を発症したとして、労災認定されたとの報道がありました。

「裁量労働制」は、実際に働いた時間にかかわらず、みなし労働時間分を働いたことにする制度で、会社は「1日8時間」をみなし時間としていましたが、この女性の残業時間は、入社3か月目には月100時間を超えており、病気を発症する1カ月前の残業時間は173時間15分とのことで、これは一般的な所定労働時間の倍以上働いていたことになります。
女性が入社してから休職するまでの3年3カ月の7割の期間で、過労死ラインとされる月80時間以上の残業をおこなっていたといいます。

団体交渉や労基署の指導を踏まえて、会社は「裁量労働制」を廃止し、フレックスタイム制の導入ほかの長時間労働対策をおこなって、残業時間は大幅に減っているとのことで、「裁量労働制の適用によって、女性が休職したことについて真摯に受け止めたい」とコメントしています。
一方、労災認定された女性は、「勤務していた3年間は何も変わらなかったのに、なぜもっと早くやってくれなかったのか」と話しているそうです。

この話を聞いて、まずは命にかかわるような事態にならなかったのが不幸中の幸いと思いますが、女性のコメントでとても気になったものがあります。
それは、「長時間労働に対する違和感はずっとあったが、周りがみんなそうだったし、この業界はそれが当たり前だとすりこまれていた」というものです。
労災申請の理由は、自分が体を壊した理由をはっきりさせたかったためだそうで、「今までずっと自分が悪いのではないかと自分を責めていたが、労災認定されて、ようやく自分は悪くないと言われた気がしてほっとした」とのことでした。
会社が意図的にそうしていたのかどうかは別にして、それくらいの強い「刷り込み」「思い込み」があったということです。

「裁量労働制」の前提は、業務遂行の手段や方法、時間配分等を働く人の裁量にゆだねることですが、この裁量に関する問題として、よく言われるのは「裁量が行使できないこと」です。
しかし、「それが当たり前」という刷り込みや思い込みがあったということは、自分にどこまで裁量があるのか、自分で判断できることなのかといった、「裁量そのものが理解できていないこと」になります。

現状を「おかしい」と自覚しているのと、「そもそもそういうものだ」と思っているのは、実質的な裁量が認められていないことは似ていても、中身は大きく違います。「刷り込み」「思い込み」というのは、本当に怖いことです。
会社から出ているコメントも、内容を素直に受け取れば、長年の慣習なのか会社の風土なのか、労働時間に無頓着だったことを反省していると見えるので、やはり「刷り込み」「思い込み」から「そういうものだ」となっていて、感覚が相当にマヒしていたように思えます。

もう一点、これは私が「裁量労働制」の根本的な問題と思っていることですが、働く人に時間の使い方の“裁量”はあっても、仕事量に対する“裁量”が非常に少ない、もしくはないことです。ドンと仕事を渡されて、期限だけが指示されて「後はよろしく」では、長時間労働に陥って当たり前でしょう。仕事量と時間の使い方の両方に裁量がなければ、よく言われる「定額働かせ放題」となってしまうのは必然です。

「時間では測れない内容の仕事がある」という裁量労働制に主旨は理解できますが、今のままでは、特に会社側に悪意や無自覚があったとすると、働く人が一方的に不利益を被ります。
せっかくの制度を意味がある形で機能させるには、会社と働く人の両方で、「刷り込み」や「思い込み」が排除されなければなりません。
裁量があってこその「裁量労働制」であることを、いま一度見直す必要があります。


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