「普通は気づくだろう」「普通やるだろう」「これくらいは普通だ」など、ビジネスの現場で、「普通は・・・」という言葉は意外によく聞くことがあります。ほとんどが自分と相手との間で考え方や態度に違いがあって、相手のことを批判的に言うときです。
「自分の普通」と「相手の普通」が食い違っていて、そこでは自分にとっての“普通”の方が正しく、それは他人が教えるまでもない、そもそも本人が身につけておくべきことだという捉え方をしていて、だいたいが解決策のない愚痴のような話になります。
似た表現では「常識」という言葉も同じような使われ方をしますし、世代の違いや時代の違いなどをいうときは、「普通」や「常識」が使われる典型的な例でしょう。
この“普通”というのは、そもそも100人いれば100通りあることで、それは今も昔も変わっていないはずです。ただし最近は価値観が多様化している流れもあり、この“普通”のバラつきが大きくなっている気がします。
昔であれば、日本人特有の高コンテクスト(空気を読むなど)の社会の中で「普通」といえば、個人差があったとしてもそこそこ一定の幅におさまったのだと思いますが、最近はそうならないことが多くなりました。
お互いの「普通」の距離が広がると、人間の取る行動は大きく二通りに分かれます。
一つは相手を「自分の普通」に相手を近づけようと働きかけることです。ただしこれは価値観の押し付けとも言え、お互いの「普通」の感覚が離れていればいるほど受け入れられないものです。表面的に受け入れられたように見えても、実際には不満を生んでいるだけであまり良い効果はありません。
もう一つは、何も言わずに「相手の普通」を受け入れるというものです。納得しないが放置するといった方が正しいかもしれません。例えば若手社員に対して「飲み会は嫌がるから誘わない」「パワハラと言われないようによけいな雑談はしない」などという人がいますが、相手の感覚に不満を持ちながら合わせているということでは同じようなものです。
こちらも相手との接点を避けているということで、あまり好ましいことではありません。「相手の普通」は多様ですから、一概に決めつけてしまうのは良くありません。
ここで、私が実際にやって見て、意外に良いと思うことが一つあります。それは「普通」や「常識」という言葉を使わないということです。
「普通」「常識」を使うのをやめると、そのことに関する背景や、だからこうしてほしいという具体的な行動を説明しなければならなくなります。確かに手間はかかるし面倒ですが、業務指示と考えればやらなければならないことです。
さらにこれを続けていると、だんだんと「チームの普通」や「会社の普通」ができてきます。それは必ずしも「個人の普通」とは一致しませんが、別のくくりで共通の価値観は作られていきます。
例えば「プライベート重視」などという価値観は、「自分の普通」の一種なので基本的に変わりませんが、ある案件に関する背景や重要性を説明して、この場面に限っては業務優先だと説明すれば、それでも断固拒否という人はめったにいません。
「普通」という言葉は一見便利に見え、みんな安易に使いますが、それはだんだん通用しづらくなっています。文脈に頼らずしっかり言葉で表現するコミュニケーションを心がけると、お互いの「普通」は違っていても、納得感はずいぶん良い方に変わっていくはずです。
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